しかし、三条と道長の疎遠な関係は否定しがたい。三条の東宮庁の中心人物は、失脚前の伊周(東宮傅)、そして誠信であった。そして、藤原顕光(あきみつ)(東宮傅。兼通の子ども)、藤原通任(みちとう)(東宮権亮。済時の息子、娍子の兄弟)が、『藤原道長日記』で「無心」「不覚者」「白物(しれもの)」などと罵られており、東宮大夫・傅を歴任した藤原道綱が長男の嫁に伊周の弟=隆家の娘をとっていることも重大である。隆家もいつの時点からか、三条の近臣となっているのである。さらに、綏子と密通した源頼定が長徳2年の伊周配流に連座して勘当されていることも、注意を引く(『藤原実資日記』)。
道長は次女の妍子を天皇に嫁がせ、関係を築こうとしたが…
以上を勘案すると、定子の子ども=敦康の立太子は、彰子の後押しがあったことと同時に、三条の側から期待されたものであったことがあきらかだろう。譲位の遺言にあたって、皇太子の選にもれた敦康の世話を頼んだ一条天皇に対して、三条が「仰せ無くとも、奉仕すべき」むねを答えたのは(『藤原道長日記』)、自分に縁の近い皇太子をえる期待を裏切られたことの表現と考えるべきである。
伊周は一条の死去の前年に死去してしまったが、『大鏡』によれば、弟の隆家が、三条と相前後して一条に面談しており、そこで敦康の立太子は無理だといわれた隆家は、「〔一条に対して〕あはれの人非人や」とこそ申さまほしくこそありしか〔なんとびどい人だ、といいたくなった〕」と述懐したという。隆家は敦康の排除の責任がもっぱら道長にあるとは、考えなかったのである。
眼病に悩んではいたものの、無力な天皇ではなかった
隆家は豪毅な性格で評判もよかったようで、敦康の人事の経過にもめげず、隆家が、実質上、三条の近臣筆頭として大嘗会の御禊で堂々とふるまったことを誉め、敦康が立太子して隆家が後見をするのを期待する世評も高かったといわれている(『大鏡』)。