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この事件のしばらく前、995年(長徳1)には、三条は、二番目の妻の娍子(すけこ)の父=済時(なりとき)、三番目の妻の原子(もとこ)の父=道隆の2人を亡くしている。この2人のうち、娍子は小一条を産んでいるが、原子は子どもを生まないまま、1002年(長保4)、23歳の若さで死去している。

とくにまがまがしいものを残したのは、立太子以来、三条の侍臣として春宮権亮(とうぐうごんのすけ)・春宮権大夫を16年間にわたって勤めてきた藤原誠信(さねのぶ)(道長の叔父の為光の長男、花山女御=忯子の兄)の死に方であった。彼も道隆の呑(の)み仲間であったようで、道隆の邸宅で酔態を演じたという話が残っているが(『大鏡』)、道長の評価が低く、1001年(長保3)、弟の斉信(ただのぶ)に中納言への道を先に越されて怒りのあまりに自死した。誠信の恨みは凄まじく、除目(じもく)(人事発表)の朝から、道長らにはめられたと狂いたち、7日後に死ぬと「盟言(うけいごと)」して絶食し、手の爪が甲に突き通るほど握りしめてうつぶしたまま、予言通りに死んだという(『大鏡』『藤原行成日記』)。

三条天皇の近くには、道長の兄・道隆の関係者が多くいた

以上のような経過のなかでめだつことは、道隆の娘=原子が入内していたことを中心として、三条の周辺には道隆時代の宮廷の影響が強いことである。従来、道長の時代の政争というと、主に伊周(これちか)・定子問題、定子と彰子のあいだの後宮争いのみを主なものと考える傾向があるが、それだけでなく、皇太子三条の位置の問題と公然・非公然に結びついていたのである。

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もちろん、道長も、三条を放置していたのではなく、1007年(寛弘4)には、長男の頼通(よりみち)を東宮権大夫とし、一条天皇の死去の前年、1010年(寛弘7)には、17歳になった二女の妍子(よしこ)を皇太子=三条の室に入れている。妍子の入内年齢が通常の例より少なくとも2年は遅かったことには、何らかの事情が想像されるものの、道長も兼家・道隆と同様に、円融系・冷泉系の両王統に娘を配すという伝統的な方策をとったのである。