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そして、三条も生来の眼病に悩んではいたものの、決して優弱な王ではなく、通例のように、即位後、意気込みをもって代替り新制にとりくんだ。とくに即位翌年の1012年(寛弘9)正月、和泉国司源経頼(つねより)が「国を淳素の俗に反(かえ)す」という徳政思想を宣言して、国内の開発規制を緩めることを通告したことは社会経済史のうえでも注目される事実である。

しかし、三条徳政にとってのつまずきは、やはり王の家族の問題から発生した。何よりも問題であったのは、三条の皇太子生活が長く、妻の娍子と、そのあいだにもうけた長男=小一条とのしがらみが強かったことで、そこに道長の娘の妍子があらたに割り込んだことは、大きな矛盾をひきおこした。

よく知られているのは、1012年2月、まだ子どもを産んでいない妍子がさきに中宮に立后したことである。これは国母=詮子(あきこ)の姪で、前天皇の妻=彰子の妹という妍子の身分からして十分にありうることであるが、批判がわきおこることもまた当然であった。そして、遅れて皇后に立った娍子の皇后宮大夫は隆家が務めることとなり、その立后の儀式に対して、道長は露骨な妨害をおこなったのである。

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強引な道長に、天皇は「無礼はなはなだしい」と激怒

このようにして後宮の争いは双方から激化し、天皇は「〔道長の〕無礼もっとも甚だし。この一両日寝食例ならず、頗(すこぶ)る愁思あり。〔道長は〕必ず天責をこうむるか」「かくの如きのことにより、命しばらくは保たんと欲す」とまで述べるにいたった(『藤原実資日記』長和1年4月)。これに対して道長邸では、三条天皇の「方人(かたうど)〔仲間〕」として藤原道綱・隆家・懐平(かねひら)・通任と藤原実資を数えあげ、この5人がおりからの道長の病気を悦んでいるという噂がとびかったという(『藤原実資日記』長和1年7月)。政局は泥沼化の一歩手前にまでいったのである。

この情勢は、同じ年の8月になってはじめて妍子が天皇の側に参入し、暮れにはその妊娠があきらかになったことによって、一時融和することになる。しかし、道長は、1013年(長和2)の贅沢禁止の新制に対して、「内に過差(かさ)を停(とど)むべきの由(よし)を奏し、外に制に拘(かかわ)るべからざるのことを仰(おお)す。天地に恥じざるか」と批判されるような面従腹背の態度をとり、三条新制に協力しなかった。