太平洋戦争の起点となった真珠湾攻撃。その内実や後世に語り継ぐ必要性について、有識者6人が話し合った。
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なぜ、いま真珠湾攻撃なのか
保阪 今回は、太平洋戦争の起点である真珠湾攻撃を中心に議論しましょう。ハワイ・オアフ島の真珠湾へ、連合艦隊司令長官、山本五十六の命で空母機動部隊が奇襲をかけたのは、1941年12月8日の未明。そこに至る経緯から、作戦立案に関する疑問、そして、真珠湾攻撃が後の戦いにどう影響したのかまで、忌憚なく話し合いましょう。
戸髙 戦果をまとめておきます。赤城や加賀など、参加した航空母艦は6隻。そこに搭載された零式艦上戦闘機、九七式艦上攻撃機、九九式艦上爆撃機、計350機による大規模な攻撃でした。アメリカ軍は、戦艦アリゾナなどの6隻の艦船が沈没し、航空機231機の損害。2400名を超える死者が出ました。一方、日本側の犠牲は、死者数は明確ではありませんが、失われたのは航空機29機、特殊潜航艇5隻のみでした。ただ、日本側が主要攻撃目標としていた米空母部隊は当時ハワイにおらず、米海軍の戦力を大きく減らすには至らなかった。
大木 真珠湾攻撃の後も、日本軍は快進撃を続けます。12月10日のマレー沖海戦では、イギリスの戦艦2隻を撃沈。航空機が作戦行動中の戦艦を沈める快挙でした。
年が明けた1月にはマニラを、2月にはシンガポールを占領します。この大戦果に政府も国民も酔いしれて、山本五十六が唱えた早期講和論は雲散霧消してしまいました。
香田 勝ち戦になったために、軍部も規律が弛んだんですね。陸海軍が自分の成果を飾るようになる。