同鉱ではただちに藤瀬正抗務課長ら保安要員が現場に行き、注水で消火作業を行うほか、酸素をしゃ断するため坑道を密閉する用意もしており、二次燃焼を警戒して午後4時の二番方から坑内への立ち入りを禁止した。(長崎新聞1964年8月18日朝刊)
掲載された写真は、端島の病院でケガをした鉱員たちがベッドに倒れ、医師の手当てを受けている様子。事故発生時の緊張感が伝わってくる。
坑道でごう音とともに爆発的な火災が起き、火と煙に包まれた
端島の炭鉱は8月14日から16日まで盆休みだった。17日から炭鉱夫たちが三交代制の仕事を再開しようとしていたところ、夜中の2時半ごろ、パトロールをしていた職員が地下940メートルの現場で石炭が自然発火し黒煙をあげているのを発見し、10人で注水などをして消火作業にあたった。いったん午前6時すぎには火が消えて、「もう大丈夫」と、胸をなで下ろしたという。最初の火事は小規模だったと思われる。
しかし、その直後、石炭の自然発火で不完全燃焼した一酸化炭素とメタンガスが高さ約4メートル、幅4メートルの坑道の天井部分に充満し、突然燃え広がった。「ごう音」という描写から、まるで爆撃のような火災だったと想像できる。即死者が出なかったことが不思議なぐらいだろう。
当時は日本全国に炭鉱があった。1964年ごろには全体的に石炭の生産力が落ち、一時は16炭鉱を所有した三菱鉱業も福岡の筑豊など老朽山を整理。北海道の「大夕張」、端島に近い長崎の「高島」、そして「端島」という優良炭鉱に人員を集中させていたが、それでも炭鉱事故は毎年のように起きていた。
前年には三井の炭鉱で458人の犠牲者を出す大事故が起きていた
前年の1963年には戦後最悪と言われる福岡の「三井三池炭鉱大爆発事故」が起きていた。犠牲者の数はなんと458人。
この事故は人災の要素が大きく、10両編成の鉱車の連結器が切れて坑内を暴走。堆積していた炭じんによって火花が引火、大爆発を起こしたという。救出され、かろうじて一命を取り留めた839人も一酸化炭素中毒で、歩行や会話が困難になる、記憶力が低下するなどの高次脳機能障害を負った。もちろん、経営する三井鉱山は、この事故で大損害を負うことになった。