2024年12月19日、98歳で死去した読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡邉恒雄氏。「文藝春秋」では渡邉氏の寄稿をたびたび掲載してきた。中でも、2013年3月号に掲載された、日本共産党に入党した過去がある渡邉氏による“共産主義批判”は読み応えのある記事だ。

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共産党に入党、そして除名

 私は終戦直後の1945年12月に代々木の共産党本部の門を叩き、入党申込みをした。それから1947年の二・一スト後、マルクシズムに対する理論的懐疑、特に唯物論哲学では、人間の道徳、人格の価値がまったく位置づけられていないことを知り、「主体性論争」を当時東大細胞の指導部員(キャップと呼ばれることもあった)として提起した。多くの学生党員に支持され、それを警戒した党本部は、私を除名、東大細胞全体を「解散」処分にした。

渡邉恒雄氏 ©文藝春秋

 終戦直後の学生たちは、マルクスの「共産党宣言」とエンゲルスの「空想から科学へ」くらい読めばマルクス主義を会得したと思い、続々と共産党に入党したものだ。敗戦直後の瓦礫の原野と化し、私財をほとんど失った人間から見れば、共産党宣言は国と社会を改革する最良の指針となっても不思議はなかった。

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 ちなみに、マルクス主義が理論体系として完成されるのは、「共産党宣言」より約20年後の1867年から94年にかけて刊行された「資本論」による。1883年にマルクスが死去した後、親友のエンゲルスによって完成された。「資本論」は商品と貨幣の関係、剰余価値の発生、労働賃金と資本の蓄積過程など資本主義的生産のすべての過程を分析した経済学上の古典的名著であって、戦後一時東大の経済学者は、「マル経学者」に占拠されたほどである。

「共産党宣言」は無効化した

 しかし、この理論は1848年前後の欧州諸国での革命連発時代で、諸国民の置かれた産業社会の階級対立の中で構想されたものだ。確かに、当時の産業社会は矛盾に満ちていたが、後述するように21世紀の世界とは政治、経済を含む産業社会構造は、まったく異質なものとなっている。

 20世紀の初期、1929年10月24日の「暗黒の木曜日」のウォール街大暴落に端を発した世界大恐慌に始まるデフレは十年余も続き、マルクスの言う資本主義の大矛盾としての社会混乱が起きていた。4人に1人の失業者、食糧過剰の中で貧困と飢餓が生じた。農産物をはじめとする物価大暴落による農民の窮乏、中産階級の所得の低下等、プロレタリアートの蜂起の条件は完璧に備わっていた。

 もちろん、共産党、社会党は革命の好機としてデモや暴動を煽動したが、社会党は修正資本主義に傾いて共産党は孤立し、貧民たちを含め没落した中産階級も共産党支持に走ることはなかった。またニューディール期に共産党が連邦議会に議員を出すこともなく、大統領選挙でも得票数は泡沫の如きものだった。