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前回の歌唱は“封印してしまいたい黒歴史” 

《1番をなんとか乗り切って、さあ2番。「来るぞ、来るぞ、いさざが来るぞぉ」。悪魔の囁きが、喉を締めつけます。そして――。/なんと表現していいものやら。出てきた声は、牛がもがき苦しむような声とでもいいましょうか。本番前に何度も何度も練習して、そのあげくにこれですから、もう腹が立つのを通り越して、笑っちゃいます。/あんなに練習したのに、あんな歌しか歌えないなんて……あなたは馬鹿なの!? ホント、自分で自分が嫌になります》(同上)

 坂本はこのときのことを《わたしの中では、永久に封印してしまいたい黒歴史です》とまで言っている(同上)。ただし、封印したいのは歌のほうではなく、テレビに映った自分そのものであった。それというのも、当時流行っていた太眉のメイクが一重まぶたの彼女にはちっとも似合っていなかったからだ。用意された衣装も白い着物にたくさんの花を羽根のように背負うというもので、それだけならまだしも、おかっぱのカツラをかぶらされ、坂本は恥ずかしくて顔から火が出そうだったという。しかし、このとき紅白出場3回目、デビューからもまだ4年目とあって、さすがに断ることはできなかったらしい。

©︎文藝春秋

梅干しメーカー勤務から猪俣公章の内弟子へ

 熊野古道の入口の「口熊野」と呼ばれる和歌山県上富田(かみとんだ)町に生まれ育った坂本は、母方の祖父の影響で幼い頃から歌が好きだった。小学5年生のときには、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」を聴いて歌手を志すようになる。それからというもの一人で歌の練習に励み、高校卒業後に地元の梅干しメーカーに入社してからも、昼休みには地元のカラオケ同好会の人が倉庫に備えた立派な機器で歌わせてもらい、定時で退社するとさらに家で歌っていたという。

 坂本が歌手になる糸口をつかんだNHKの『勝ち抜き歌謡天国』に応募してくれたのも、その同好会の主宰者だという。同番組は、テープ審査と予選を通過して各地方での大会に進出した5人の出場者が、それぞれペアを組んだ作曲家からレッスンを受け、その成果を競い合うというものだった。

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 坂本は同番組の最終回(1986年3月放送)に出演、そこでペアを組んだのが猪俣公章だった。ほかの作曲家が30分かけて教えるなか、猪俣はたった5分だけ、それでも教え方は的確で彼女は見事優勝する。これをきっかけに猪俣の内弟子となり、単身上京した。このとき19歳になったばかりだった。それからデビューするまで、師の身の回りの世話や家事全般、飼い犬の散歩、さらには運転手まで務めながら下積み生活を送る。