恩師が亡くなった年に…坂本の心残りとは
坂本が念願の女歌を猪俣からもらったのは、「能登はいらんかいね」の翌年、1991年にリリースした「火の国の女」で、この年の紅白でも披露した。ただし、曲自体はすでに2年前に「火の蛍」という仮タイトルで出来ており、彼女を喜ばせたが、猪俣の「まだ早い!」の鶴の一声でストップがかかったという。坂本が後年語ったところによれば、師は《1年目2年目3年目は男唄を歌い、4年目でしっとりとした男唄、5年目で満を持して、女唄……というプランを考えてくださっていた》ようだ(『週刊大衆』2018年1月8・15日号)。
猪俣はその2年後、1993年6月に亡くなる。同年の紅白で坂本は、自身も出演したNHKの大河ドラマ『炎(ほむら)立つ』のイメージソングとして堀内孝雄が作曲し、阿久悠が別名の「多夢星人」で詞を提供した「恋は火の舞 剣(つるぎ)の舞」を歌った。
この曲を4月にリリースしたとき、すでに猪俣は入退院を繰り返していた。あるとき坂本が病床を見舞うと、師は伍代夏子につくった「恋ざんげ」をテープで聴かせ、「どうだ、いい曲だろう?」と胸を反らしたという。《でも……、きっとあのとき先生は「それなのに、なんでお前の曲は俺じゃないんだ」という言葉が喉まで出かかっていたはずです》と彼女は師が亡くなったあとに慮った(『坂本冬美のモゴモゴモゴ』)。NHK側の意向もあってやむをえなかったのだろうが、この年の紅白で先生の曲を歌えなかったのが心残りだとも語っている(『週刊ポスト』2014年12月26日号)。
しかし、1980年代に入ってしばらくヒットに恵まれなかった猪俣にとって、そのころ運命的に出会い、自身のすべてを注いで育てた坂本が才能を開花させたことは、何よりの喜びだったはずである。彼女が紅白に初出場したときも、《自宅のTVの前でヨシヨシっていいながら涙ぐんでいた》という(同上)。
お蔵入り寸前まで追い込まれた「夜桜お七」
猪俣の葬儀では、作曲家の三木たかしが自らも泣きながら「冬美、先生のそばにいてやれ」と気遣ってくれた。三木は猪俣から頼まれたかのように、翌1994年、彼女のために「夜桜お七」を手がける。ロックを思わせるテンポのいい曲調に加え、気鋭の歌人・林あまりが1ヵ月かけて書き上げたという詞も、ティッシュというフレーズが出てくるなど演歌としては斬新なものとなった。坂本も曲を聴くや、その熱いメロディに「早く歌いたい!」と心が震えたという。新人時代よりクロスオーバーな活動をしてきたことを思えば、これほど彼女にふさわしい曲もないだろう。
だが、同曲を出すことにレコード会社や事務所の関係者は「坂本冬美をつぶす気か⁉︎」と猛反対し、お蔵入り寸前にまで追い込まれた。それを三木が「30万枚売れなければ、頭を丸めて責任を取ります」と宣言して押し切ったという。彼の覚悟は吉と出て、「夜桜お七」は30万枚をはるかに超えて大ヒットし、坂本の代表曲の一つとなった。紅白でも発売年に歌って以来、これまでに9回披露している。
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