NHK『紅白歌合戦』へ36回目の出場を決めた坂本冬美(57)。今年は、能登復興への思いを込めて「能登はいらんかいね」(1990年)を34年ぶりに紅白のステージで披露する。かつて「難曲中の難曲」と語っていた同曲をどのようにパフォーマンスするのか、注目だ。
坂本冬美と紅白、その歴史を振り返る。(全2回の2本目/はじめから読む)
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デビュー10年目、心身ともに疲弊して…
坂本冬美はデビュー10年目を迎えた1996年、「夜桜お七」で初めて紅白でトリをとった。しかし、翌春には30歳を迎えようとしていたこのころ、彼女は心身ともに疲弊していた。それまではプレッシャーやストレスは、若さもあってステージで発散できていたのが、しだいに自分に対してどんどん厳しくなり、小さなミスも見過ごせなくなっていたという。目の前の仕事をこなすだけで、自分の引き出しを増やせないことに焦りも感じていた。のちに当時を顧みて次のように語っている。
《年齢的なものも大きかった。女性の30代って、精神的にも肉体的にも変化がありますよね。20代と違い、小さなつまずきで身体と心のバランスを失い、知らず知らず自分をコントロールできなくなってしまって、それでも頑張らなくてはいけない立場に押しつぶされそうでした》(『婦人公論』2003年4月22日号)
そこへ来て立て続けに試練に見舞われる。紅白でトリを務めたのは、虫垂炎の手術明けであった。そのステージで1コーラスを歌ったあと、紅組のほうを見ると、親友の伍代夏子と藤あや子が涙ぐんでおり、坂本も涙がこみあげてきたものの、どうにかこらえて歌いきった。そんな彼女に、打ち上げで大ベテランの都はるみは「大丈夫よ、トリなんて順番だと思えば」と言ってくれたという。これについて《せめて歌う前に聞きたかったです(笑い)》と坂本はのちに笑い話のように明かしたが(『週刊ポスト』2014年12月26日号)、このとき彼女の身体はいよいよ悲鳴を上げていた。
年明けの春には今度は膵炎で入院。それに追い打ちをかけるように、同じ年の秋、父親を事故で突然失う。そのショックから精神的に不安定になった母のことが心配で、坂本自身も心をすり減らしていった。あとから考えれば、このとき休めばよかったのかもしれないが、この時点でスケジュールは2年先まで決まっており、とても休める状態ではなかった。そこで周囲のスタッフには、2002年にデビュー15周年を迎えたら一区切りつけたいと申し出て、ファンにはわからないよう徐々に仕事を絞っていった。