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 その間、何とか歌い続けてはいたものの、体力は落ち、自信もなくなるばかりであった。もともといつも緊張しながら出演していたテレビの生放送も、本番の1週間前からカウントダウンしては冷や汗が出て、そのうちテレビに出ること自体が恐怖となる。ついには、このまま引退してもいいとまで思い詰めた。

スポーツ新聞に「坂本冬美重体」の見出し、死亡説まで…

 2001年12月にようやく翌春からの休養を宣言し、紅白ではこの年リリースした「凛として」を歌った。いつもは緊張し通しの紅白も、この年だけは自分を客観的に見られるほど冷静でいられ、堂々と歌えたらしい。1番が終わると、紅白で歌うのもおしまいかもと感じ、この光景を心に焼きつけるつもりで間奏のあいだ、ゆっくりと視線を動かしたという。歌い終わっても涙はなかった。

《歌い終え、深々とお辞儀をしたときに、わたしの心によぎったのは、“ごめんなさい”と“ありがとうございました”という2つの言葉だけ……。/控室に戻ってからも、“これでいいんだ”という思いと、“こうするしかないんだ”という気持ちが交錯し、いつまでもぐるぐると渦巻いていました》(『坂本冬美のモゴモゴモゴ』光文社、2022年)

2000年、32歳当時の坂本冬美 ©時事通信社

 年が明けて2002年4月から無期限の休養に入った。当初は休養の理由を公にせず、復帰の時期も明言しなかったが、そのためにあらぬ憶測を呼んでしまう。ハワイでしばらくすごしているあいだに日本では自分の重病説が取り沙汰され、和歌山の実家にもマスコミが張りつき、帰国後も戻るに戻れなかった。重病説は収まるどころか広がる一方で、夏に藤あや子が公演していた名古屋へ遊びに行ったときには、スポーツ紙が「坂本冬美重体」とデカデカと見出しに掲げていて驚愕する。挙げ句の果てには死亡説まで出る始末であった。

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大ベテラン歌手・二葉百合子に稽古をつけてもらうように

 実際には体調は回復に向かっていた。膵炎も精神的なものが大きかったらしく、休養に入って数ヵ月後に受けた血液検査の結果は、主治医が不思議がるほど良くなっていた。歌手を辞めるつもりでいたのも、大ベテランの歌手で浪曲師の二葉百合子がテレビで歌う姿を見て感銘を受けたのを機に心変わりし、自分から頼み込んで稽古をつけてもらうようになる。

 稽古に通い始めた当初、二葉からカウンセリングを受けるように自分の悩みを打ち明けると、「あなたも歌の壁にぶつかったのね。それはとても素晴らしいことで、あなたが成長している証なのよ」との言葉をかけてもらった(『週刊現代』2011年3月26日号)。いざ稽古に入るときは、しばらく歌っていなかったので声が出ないのではないかと怖かったという。