続いて、Aでは捨ててしまっていた2番目から始まるグループをB、3番目から始まるグループをCとしてみる。
B お湯→寝る→時計→お裁縫→ヒゲ
C かける→起きる→針→お母さん→電気カミソリ
お湯の中で寝てしまったことに気付き、あわてて時計を見たところなんとお裁縫がヒゲで、もうなんだかわからない。「お裁縫」と「ヒゲ」という言葉のぶつかり合いだけでとりあえずは十分面白い。「お母さん」と「電気カミソリ」もすごいインパクトだけど。こんなふうに飛ばし飛ばしで連想ゲームをしてゆくと、普段の言語感覚からは絶対に出てこないような組み合わせが当たり前のように現れてくるので楽しい。このゲームが真価を発揮するのは連想ゲームをしているとき自体ではなく、「飛び散った言葉たち」をあとからまとめて撚りあげる感想戦のときだ。これらの言葉たちをもとに、ショートストーリーを作る人もいるだろう。イメージ画を描く人もいるだろう。私は歌人なので、短歌を作ることにする。だからちょうど五句に当てはまるように5つずつにした。五七五七七の各句にそれぞれの言葉をねじ込んでやるのだ。
Aグループの歌
温泉宿の毛布はぬるく目覚ましのかわりに抜糸するお父さん
Bグループの歌
お湯を張り寝る準備する時計屋のお裁縫箱になぜか付けヒゲ
Cグループの歌
転びかけても起きるぞ。僕の武器は針。お母さんのは電気カミソリ。
目を覚ますために抜糸しちゃう(抜かれる方なのか抜く方なのか)お父さんや、どういうわけか裁縫箱に付けヒゲを入れている時計屋さんなど、強烈に変なキャラクターばっかり出て来た。そしてついには針と電気カミソリで何かと戦おうとする母子。無謀な戦いだ。誰か止めてやってほしい。短歌にするのがもっとも難しかったのはCグループ。「お母さん」と「電気カミソリ」で音数をかなり使うことが原因である。下句のパターンは「お母さん○○電気カミソリ」に最初から固定されてしまうからなあ。そして「針→糸→お裁縫」の流れで登場した単語が妙に存在感を発揮している。人間にも主役向きのスターがいるように、主役になりやすい存在感のある言葉というのもやっぱりある。
もちろんこの「飛び飛び連想ゲーム」は、必ずしも2つおきでなくてもいい。面白い具合に飛躍する射程距離の最低限が2つということで、3つおきや4つおきでも一向にかまわない。しかし、私が試してみたところやっぱり2つおきがいちばん飛躍の具合が面白いように感じられる。ちなみに連歌(五七五に他の誰かが七七を付ける、を繰り返して多人数で詠んでゆく形式)では打越(前の前の句のこと)と趣向が似るのは避けるようにするというルールがある。具体例を挙げてみる。
A 面白きこともなき世を面白く
B 住みなすものは心なりけり
C □□□□□□□□□□□□
AにBという付句が付いたとき、この次のCを詠む人にとっての打越はAとなる。そしてCはAから出来る限りかけ離れた世界観を提示する必要がある。連歌は「変化と移調を繰り返すこと」を重視する形式なので、こういった考え方が生まれた。この連歌のルールを知ったときは、「自分がやっていた『飛び飛び連想ゲーム』の精神そのままじゃないか!」とびっくりした。そうだ。中学生の頃の私もまた、生まれ育った街が嫌いで、自分がずっと同じ場所にいることを拒否したくてしかたがなかった。少しだけでも自分の居場所を変えてゆきたかった。実際に引っ越したりすることは無理でも、せめて、言葉の世界の中だけでも、2つおきに言葉をジャンプさせてゆくことで滑らかに飛んでゆきたかった。
「ここではないどこかへ行きたい」。それが私の言葉遊びの原動力だった。だからだろうか。たえず揺れ動くもの、どんどん変化してゆくものに惹かれていた。それが「マジカルバナナ」だったし、「飛び飛び連想ゲーム」だった。家族や同級生はわかってくれなかった。たったひとり、言葉の世界だけで三段跳びを繰り返して、いつかどこか遠くに行けることを期待していた。
今、私はあのとき焦がれていた三段跳びの先の世界に、立てているのだろうか。