子どもの頃、一時期「連想ゲーム」に異様にハマっていたことがあった。ある単語から連想できる単語を次へ次へと回してゆく……。その遊びにとりつかれ、一緒にやろうやろうと親にねだった記憶がある。もっとも子どもの知識量では連想できる単語が極端に少なく、すぐ負けてしまったのだが。
そういう遊びが好きだった子どもは決して私だけではなかったようで、同級生のやんちゃ坊主たちがよく、こんな遊び歌をしきりに声を重ねて歌っていた。
デブデブ百貫デブ、車にひかれてぺっしゃんこ、ぺっしゃんこは煎餅、煎餅は甘い、甘いは砂糖、砂糖は白い、白いはうさぎ、うさぎは跳ねる、跳ねるは蛙、蛙はみどり、みどりはキュウリ、キュウリは長い、長いは廊下、廊下はすべる、すべるは親父のはげ頭
こんなふうに「○○は××」と連想形式でくっつけていって、最後は必ず「親父のはげ頭」で終わるのがお約束。デブではじまっていきなり車にひかれて、最後ははげ頭で終わるあたりが、残酷なまでに無邪気な小学生のセンス。歌い終えたらまるで壊れたおもちゃのように、「親父のはげ頭、親父のはげ頭」と笑いまくるのである。死と破壊に満ち満ちたこの遊び歌でケラケラ笑えるというのは、よく考えてみたらなかなかブラックだ。この百貫デブの歌、いったいいつくらいからあるものなのかは知らないが、面白いことに地方によってさまざまなバリエーションがあることを成長してから知ることになる。
デブデブ百貫デブ、車にひかれてぺっしゃんこ、ぺっしゃんこは煎餅、煎餅は丸い、丸いはボール、ボールは跳ねる、跳ねるはうさぎ、うさぎは白い、白いは幽霊、幽霊は消える、消えるは電気、電気は光る、光るは親父のはげ頭
こんなバージョンもあるようだ。もっとも顕著な違いは「すべるは親父のはげ頭」ではなく「光るは親父のはげ頭」で終わっているところ。どうやら全国的には「光る」バージョンの方がメジャーで、「すべる」バージョンは北海道・東北地方のみに普及しているらしい。雪道ですべることが身近だからだろうか。不思議である。他にも車が電車だったり、「ぺっしゃんこ」が「ペッタンコ」だったり、「みどり」が「青い」だったり、微妙な違いがたくさんある。それでも、登場する単語がまるっきり入れ替わってしまうバージョンというのはないようで、だいたいは煎餅からはじまるようだ。
この「百貫デブ」の別バージョンに、「さよなら三角また来て四角」がある。これもやはり子どもの頃に歌った記憶がある。
さよなら三角また来て四角、四角は豆腐、豆腐は白い、白いはうさぎ、うさぎは跳ねる、跳ねるはバッタ、バッタはみどり、みどりはキュウリ、キュウリは長い、長いは廊下、廊下はすべる、すべるは親父のはげ頭
というわけで、やっぱり親父のはげ頭ですべって終わる。内容の異同は「百貫デブ」と大して変わらない。デブが車にひかれない分だけもう少しマイルドかもしれない(はげ頭の立場がないが)。これもどうやら「電気は光る」からの「光るは親父のはげ頭」コンボで終わるのが、全国的にはメジャーなようだ。「さよなら三角また来て四角」については1966年の『サザエさん』にも登場していて、『日本わらべ歌全集』(柳原出版)の聞き取り調査によると、明治の終わり頃にはすでに歌われていた可能性があるそうだ。