トイレを借りに小学校を訪れたヒロポン中毒の男が女子児童を暴行・絞殺した「文京区小2女児殺害事件」。同事件はなぜ起きたのか? そしてのちの社会にまで与えた影響とは? 新刊『戦後まもない日本で起きた30の怖い事件』(鉄人社)より一部抜粋して紹介する。(全2回の2回目/最初から読む)

7歳の少女を襲った犯人男の卑劣な手口、そしてのちの社会に与えた影響とは? 写真はイメージ ©getty

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トイレに残された「犯人逮捕の手がかり」

 強姦殺人事件として捜査を開始した警察は、ほどなく有力な手がかりを掴む。トイレの配管から犯人の持ち物と思しき「S・S」のイニシャルが入ったハンカチを発見。さらに現場周辺で不審者の目撃情報がなかったか聞き込んでいたところ、元町小学校の近所に住んでいる男性から着目すべき証言が得られた。なんでも、事件当日の午後、友人の坂牧修吉(同20歳)という男が家を訪ねてきたのだが、いかにも挙動がおかしく、会話は成立せず、洗面所でしきりに手を洗っていたという。

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 こうした状況から警察は坂牧を容疑者として取り調べ自供を得る。事件から10日後の4月29日のことだ。

 坂牧は1935年、青果問屋を営む比較的裕福な家庭に生まれた。ただ、派手好きな母親が外に愛人を作り、それが原因で両親は常に言い争っていた。成長した坂巻はやがて母親に激しい憎悪を抱くようになる。

 小学校高学年期、日本は戦争末期で、米軍の空襲から逃れるため学童疎開へ。終戦で東京に戻ったころは勉強に対する意欲を失っており、しだいに不良グループの溜まり場に顔を出し始める。それを心配した父親は息子を栃木県の中学に入れるが、この栃木の下宿先にも母親が愛人を連れてきたことで関係はさらに悪化。人格が荒み、傷害や暴行事件を起こして捕まり保護観察処分を受ける。

 その後、両親は離婚。父親は再婚したが、継母になじむことはなく、やがて当時流行していたヒロポンに手を出し、中毒者(通称「ポン中」)となってしまう。

 ヒロポンとは、現在では使用・所持すれば厳罰処分を受ける覚醒剤の一種だ。ただ、戦時中の日本では兵士の士気向上や暗視能力の向上のために使われ、一般人も勤労や工場の能率向上のために強壮剤感覚で常用。

 戦後、軍が保有していた大量のヒロポン注射剤が市場に出回った。扱いはタバコや酒などの嗜好品と同等で、酒よりも安く気軽に入手できたため、芸能界を始め、娼婦や戦争孤児の非行少年の間で流行。そのうち、ヒロポン欲しさに犯罪に手を染める青少年が増えていき、1950年に警察に補導された者は1万5千人以上、翌年には倍の3万人以上が中毒になっていたとされる。

 こうした状況を鑑みて、1951年7月30日に覚醒剤取締法案が施行されたものの、ポン中による犯罪は後は絶たず、警察がその対応に苦慮していたころに起きたのが鏡子ちゃん殺害事件だった。

 1954年、静岡県のサナトリウムで結核の治療を受けていた坂巻は、ポン中の影響で問題ばかり起こしていた。同年4月19日朝、サナトリウムを無断で抜け出して東京に戻り、金を借りる目的で後に情報提供者となった友人宅に向かう。が、あいにく留守だったため周辺をうろついていたところ、尿意を催し、近所の元町小学校へ。以前、この辺りに住んでいたことがあり、校内のトイレの位置も把握していた。