夫を亡くした女性(1999年当時のインタビュー):それを見た瞬間にすごく悲しいというか、空しいというか。 『こんなお父さんの焼けかすなんていらん!こんなもんいらん!』と叫んだわけね。 消防の人が『奥さんそんなこと言わないで。すごい火力で焼けて、冷めるまでここにじっとあったんだから、塊があるとか骨があるとか思わないでください、これが遺体ですから、これが遺骨ですから入れてあげてください』と。
■区画整理を巡って行政と住民が対立も
焼け野原となった鷹取地区では、復興も急ピッチで進められた。神戸市が打ち出した「区画整理事業」により、道路を広げ、避難所となる公園を作るために、住民は土地の一部を無償で差し出すことを求められた。
菅利秋さん:財産は焼けて何もない、土地しかないんや。それを1割取られたら、それは痛いで。
当然、住民たちは猛反発。神戸市と交渉を重ねたが、最終的に土地はおよそ9パーセント減り、自宅の再建費用も重くのしかかったため、戻れない人が多くいた。
石井弘利 日吉町5丁目・自治会長(1999年当時のインタビュー):神戸市がもっと温情のあるやり方をすれば、もっと(鷹取地区に)帰れたと思う。それが一番心残りやね。
区画整理事業については、30年経った今でも様々な思いが交錯している。
地域の男性(70代):(区画整理は)終わったて終わってないんよ。まだあるんよ。早いところけりつけたいから、けり付けただけ。
一方で、次のような意見もある。
池田美代子さん:中には怒っている人もいた、市役所の人に対して。せやけど仕方がないわ、自然がこうなってしまったからね。私は主人が言うたことがその通りやなと。『(住民と行政が)痛み分けせなしゃーない』言うてな。まぁ辛抱せぇいうことやな。
■新しい住民が増えた町 町内会の行事を通じて震災の教訓伝える
生まれ変わった街で、震災前のコミュニティは元通りとはなっていない。
しかし、毎年1月17日には、街に戻った人も、戻れなかった人も公園の一角に集まる。あの日に思いを馳せ、亡き人を偲ぶ気持ちは変わらない。