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少年のころプロ野球の応援歌に魅了されたコザック前田が、オリックスの応援歌を作るまで

文春野球コラム ペナントレース2023

2023/09/09
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 私、コザック前田はガガガSPというバンドのボーカルをしてまして、これまでオリックス・バファローズの応援歌を作曲したり、楽曲もオリックス・バファローズでつなひき帝国(得点帝国)、ソフトバンクホークスで弱男(鷹の道)、千葉ロッテマリーンズでも楽曲を選手応援歌で使って頂いたりしてるものでございます。

 野球選手が子供の頃の夢だった。沢山の子供が同じ様な事を夢見てきたと思う。ただ僕が他の子と少しだけ違ったのが、野球をプレーする事に喜びや楽しさを感じたのではなく、プロ野球中継をテレビで観て、太鼓やトランペットで演奏される”応援歌”というものにとてつもない憧れを抱き、いつか”応援歌”というものが自分にも作られて、“人に応援されたい”というのが野球選手になりたい動機であった。

(本人提供)

「ライブ初体験」は甲子園のセンター寄りレフトスタンドだった

 小学校の頃もビビッて少年野球にも入らずひたすら家でプロ野球中継を観た。最初に興味を持ったのが中日ドラゴンズだった。当時の中日は星野仙一さんが監督で、彦野、仁村、落合、中尾、ゲーリーなどの強者揃いのチームだった。

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 それもさることながら、ドラゴンズの応援に魅了されていた。落合の“マグマ大使”、ゲーリーの”狙いうち”などを筆頭にオリジナルの選手応援歌も全てがカッコ良く感じた。「大人になったら中日ドラゴンズに入るんだ!!」と思いは馳せてたものの、自分はたまに友達と草野球をする位のもので夢に向けての努力はゼロだった(笑)。

 そこから僕がやり込み始めた事は野球の練習ではなく、全球団の応援歌を覚えていく事だった。巨人、阪神は中継がいつもあるのですぐ覚えられたのだが、パ・リーグは週末のデーゲームをたまにテレビで中継してくれるのをビデオに録って覚えていった。それを学校で歌ったりしてるといつの間にか“野球博士”なんてアダ名が付いたりしてた。

 それを見てた父親が初めて野球に連れて行ってくれたのが小学校4年の頃、甲子園球場で行われた阪神‐広島戦、確かマイクこと仲田幸司投手が10個以上の四死球を出しながら完封した試合だった。僕が座ったのはセンター寄りのレフトスタンド。

 初めて行った生のプロ野球なのにほぼ試合の内容は覚えていない。僕の目と耳に飛び込んだのは応援団の奏でる音楽とその迫力! ひたすら唖然としたのを覚えている。あの衝動はおそらく僕の「ライブ初体験」だったのだと思う(後年バンドをやり始めてライブハウスに行く様になってからもあの衝動を超えるモノは見当たらなかった)。僕は幸いに神戸という土地に住んでいたので、そこから西宮球場、藤井寺球場にも足を伸ばして応援の迫力を感じに行くようになった。

 これだけ人から応援されてプレーする野球は気分もサイコーに違いない。僕は中学で野球部にやっと入ることになる。

野球部で居場所を得られたのは“応援歌”のおかげ

 公立中学の野球部だからそんなに大した事は今考えたらなかったのだろうけど、小学校から少年野球で鳴らしてる連中とは実力は雲泥の差だった。僕は部活内でプレー以外の事で目立つ様になった。

 同級生に応援歌をつけていったのである。

 体の大きい長打のある奴にはブーマーの応援歌、小柄な足の速い奴には阪神の大野選手の応援歌など色々考えて12球団の選手の応援歌をちりばめた。野球自体が下手な僕が部活内で居場所を得る事が出来たのもやはり“応援歌”のおかげだった。自分の応援歌だけは姉が持っていたキーボードで指一本で作曲した。中学3年の最後の夏、最終回に先生にお情けで出してもらった代打でみんなが僕の作った応援歌を歌う中で打席に入った時は泣きそうな位感動した(結果はボテボテのピッチャーゴロ)。兎にも角にも、僕の中学の夏はそうして終わった。

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