幕府は『新吉原町定書』で、経営不振の楼主(ろうしゅ)のなかには火事が発生すると内心で喜び、全焼をひそかに願い、消火に努めるどころか、すぐに仮宅の借り受けに走りまわっている者がいることを指摘し、一部の楼主の不心得をきびしく譴責(けんせき)している。仮宅になって有卦(うけ)に入った楼主の喜びようは、よほど目に余るものがあったのであろう。

「放火犯」となった遊女に対する罰

頻発した吉原の火事は類焼もあるが、妓楼が火元の場合が多い。しかも、そのほとんどが遊女の放火だった。苦界のつらさに耐え切れなくなった遊女が自暴自棄になって、火を放ったのである。

化政期以降、吉原が全焼した火事で見ると、

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・文政4年(1821)の火事
付け火をした豊菊(15歳)は八丈島に流罪。

・文政11年の火事
付け火をした花鳥(15歳)は八丈島に流罪。

・文政12年の火事
付け火をした清橋(27歳)は八丈島、共謀した瀬山(25歳)は新島に流罪。

・天保2年(1831)の火事
付け火をした伊勢歌(22歳)は八丈島に流罪。

・天保4年の火事
付け火をした吉里(17歳)は八丈島、共謀した藤江(26歳)と清滝(25歳)は三宅島と新島へ流罪。

・弘化2年(1845)12月5日の火事
玉菊(16歳)、六浦(米浦/16歳)、姫菊(14歳)の放火(処分は後述)。

・嘉永2年(1849)の火事
付け火をした喜代川(25歳)が八丈島、代の春(15歳)が三宅島に流罪。

・嘉永5年(1852)の火事
共謀して付け火をした谷川(19歳)、錦糸(19歳)、玉菊(35歳)が八丈島に流罪。

・安政3年(1856)の火事
付け火をした梅ケ枝(27歳)は八丈島に流罪。

・慶応2年(1866)11月4日の火事
重菊(14歳)の放火。処分は不詳。

とあり、付け火をした遊女はほとんど流罪になった。

火あぶりではなく、流罪に減刑された理由

当時、放火は大罪で、たとえボヤに終わっても犯人は火罪(かざい)(火あぶり)に処された。