1971年12月24日に新宿伊勢丹前の交番が爆破された、新宿クリスマスツリー爆弾事件。同事件を筆頭に数々の爆破事件などを実行した過激派「黒ヘルグループ」のメンバーとして指名手配された俳優・梶原譲二を父に持ち、家族で逃亡生活を余儀なくされた脚本家の梶原阿貴(52)。

 その出自を記した『爆弾犯の娘』(ブックマン社)が話題を呼んでいる彼女に、爆弾犯だった父と母の出会い、池袋での逃亡生活、名前も知らず「あいつ」と呼んでいた父との思い出などについて、話を聞いた。(全4回の1回目/2回目に続く

脚本家の梶原阿貴さん ©山元茂樹/文藝春秋

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「母が悲しんでいるところに父が現れて…」俳優の父親と、スナックで働いていた母親の出会い

――お父様とお母様は、どのように出会ったのでしょう?

梶原阿貴さん(以下、梶原) 父は俳優だったんですけど、母は女優ではなく、劇団に所属していたわけでもなく、スナックで働いていたんです。そこが劇団関係者なんかが客としてやってくる店で、父と知り合うようになったそうです。

――お母様は、お父様と同じ劇団にいた別の俳優さんと付き合っていたそうですね。

梶原 はい。父の先輩にあたる俳優と。うちの父もイケメンなんですが、その元カレの俳優さんも超イケメンで。母は面食いなんですよ。

――その元カレ俳優とお母様は、どれくらいお付き合いを?

梶原 数年だったと思います。その人が浮気をして、母が悲しんでいるところに父が現れて、「結婚してください」とプロポーズしたそうです。

――お父様は、以前からお母様のことを気にかけていたのでしょうか。

梶原 どうでしょう。面倒見のいい女性だとは思っていたんじゃないでしょうか。母はその元カレにすごく貢いで、なにからなにまで面倒を見ていましたから。

梶原さんが7歳の時に写真館で撮った母親とのツーショット写真(写真提供=ブックマン社)

母親は「ヒモ生産工場」みたいなところがあった

――“劇団員あるある”といいますか。

梶原 絶対そうだと思います。劇団員って、お金がない人が多いじゃないですか。売れてないバンドマンもそうですけど。自分のために働いてくれる女性を見抜く能力に長けているんだと思います。

 母は昼間デパートで働いて、夜はスナックで働いて、稼いだお金から元カレの俳優にお小遣いを渡していたそうです。しかも、そのお小遣いは、元カレが他の女性に会いに行くために使われていたという。

 父はそんな母の献身ぶりを見て、「この女だったら、俺もイケるんじゃないか」「この女、いいな」みたいな。その程度の話だったんじゃないですかね。