1971年12月24日に新宿伊勢丹前の交番が爆破された、新宿クリスマスツリー爆弾事件。同事件を筆頭に数々の爆破事件などを実行した過激派「黒ヘルグループ」のメンバーとして指名手配された俳優・梶原譲二を父に持ち、家族で逃亡生活を余儀なくされた脚本家の梶原阿貴(52)。
その出自を記した『爆弾犯の娘』(ブックマン社)が話題を呼んでいる彼女に、出頭後の父の様子、父の出所を経ての「梶原家解散」、『爆弾犯の娘』で出自を明らかにした理由などについて、話を聞いた。(全4回の4回目/1回目から読む)
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「貧乏長屋のような家に暮らすことになって…」父親の逮捕後、母親と2人で極貧生活
――花小金井に越したそうですが、池袋に住んでいた身だと慣れるのは難しそうですね。花小金井の家を初めて見た時に「泥の上に家が建っている!」と慄いたことが、本に書かれていますけど。
梶原阿貴さん(以下、梶原) 「花」という字が付くから、なんだか素敵な場所を想像していたんですが、実際は全く違いました。池袋にいた頃は経済的に恵まれていましたが、父の逮捕後は本当に貧しくなって。母も手芸店を畳みましたしね。貧乏長屋のような家に暮らすことになって、かなり辛かったです。
――お父様の裁判を傍聴していますが、法廷でのお父様の姿はどのように映りましたか。
梶原 輝いて見えました。もともと役者ですから、声の響きや表現力が一般の人とは全く違うんです。彼が陳述書を読み上げると、傍聴席にいた女性たちが泣き出したりして、完全にその場を掌握していました。
その時、自分も役者になろうと決めていたので、役者という仕事が持つ力のすごさを目の当たりにして、ある種の尊敬の念を抱きました。
父親には懲役6年の判決が下され、刑務所生活
――邪魔な存在だった父親でも、さすがに手錠をかけられた姿を見ると。
梶原 さすがに嫌でした。
――お父様は懲役6年の判決が下され、刑務所に入られてから元気がなくなったそうですが、それは“逃亡、出頭、裁判”の物語が終わったところもあったのでしょうか。
梶原 そうだと思います。裁判という舞台がなくなり、刑務所で単調な日々を送るだけになってしまいましたから。拘置所にいる間は服装も自由で差し入れもできましたが、刑務所になると環境が全く変わりますし。

