2014年7月に「余命1年」の宣告を受け、翌年9月に亡くなった女優の川島なお美さん(享年54)。ときには5リットルの腹水が溜まった状態で舞台に立ったことも…最後まで輝き続けた「彼女の女優魂」とは? 朝日新聞編集委員で、昨年10月に亡くなった小泉信一氏の『スターの臨終』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

最後まで女優であり続けた川島なお美さんの生き様とは ©getty

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「だって私、女優だもの」

 川島なお美は筆者より1歳上の1960(昭和35)年生まれである。ほぼ同世代と言っていい。だから、とても気になる人だった。昭和の高度経済成長期に生まれ育った我々の世代は、大学時代はディスコブーム。やがてバブルへと日本中が舞い上がってしまうが、心の奥底ではどこか満たされないものを感じていた。川島も同じだったに違いない。女優という仕事を続けるにあたり、与えられた役柄をどう表現すればいいのか、いつも貪欲に純粋に悩んでいたのではないか。

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 同時代を生きた彼女に一度お会いしてあれこれお話をうかがいたかったが、なぜか華やかに彩られた川島が遠い世界にいるような気がして(それは誤解だったのだが)、その思いは果たすことができなかった。

 なので、川島へのラブレターを書くような気持ちで彼女の人生を振り返りたい。

 まずは「余命宣告」について書いておきたい。余命宣告というのは本当に残酷なものである。生きていこうという純粋な希望を打ち砕き、患者を絶望の淵へと追いやる。

 川島は人間ドックで異変が見つかり、2014年1月、肝内胆管がんの腹腔鏡手術を受けた。再発が発覚したのはこの年の7月。その際、「余命1年」と宣告されたが、彼女は最後まで女優魂を失わなかった。そのことを物語るエピソードを紹介しよう。

 まずは最後の舞台となったミュージカル「パルレ~洗濯~」から。この時、川島は腹水が5リットルも溜まる中、舞台に立ち続けたという。降板が決まった時、川島は「もっとできたのに……」と泣き続けた。「自分の中に甘えが出ちゃった」と自身を責めることもあった。その姿に胸が張り裂けそうになった夫でパティシエの鎧塚俊彦は、「もう十分だよ」となぐさめたという。

夫として川島さんを支えた鎧塚俊彦氏 ©時事通信社

 女優魂を物語るエピソードは、葬儀の様子からもうかがえた。

 旅立ったのは2015年9月24日。享年54だった。

 10月1日と2日、青山葬儀所で営まれた通夜と告別式。ワインレッドの薔薇で大胆に流線が彩られ白い花で埋め尽くされた華やかな祭壇は、まさに川島らしい気高さを感じさせた。秋元康や石田純一ら多くの著名人の顔があった。通夜と告別式には約3800人が参列したという。

 涙を誘ったのは、家族ぐるみで親交が深く、川島にとっては「憧れの存在」だった女優・倍賞千恵子の弔辞だ。倍賞は北海道の別荘に川島を招待したことを振り返り、「蝶々のようにヒラリヒラリと走り回っていたあなた。本当に楽しそうで美しかった」と声を詰まらせた。