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「想い」を含ませられるから、木を彫り続ける

 会場で間近に目にしてみると、彼の木彫は本物そっくりに見えるとはいえ、より細密で写実的な表現を目指しているわけではないことにも気づく。須田は制作にあたって、本物の植物が手に入るときは手元に置くが、必ずしもそれは必要ではないという。欠かせないのはむしろ、いろんな角度から撮られた写真である。ユリを彫るならユリの写真が何枚も欲しいのだけれど、ユリそのものの色合い、形態のバランスなどがわかればよいので、それぞれの写真に写るのは同じ個体でなくたってかまわない。

 
 

 現実に存在するひとつの花を、木彫によって引き写したいという気持ちはないのだ。よりそっくりのものをつくりたいのなら、型をとったり3Dプリンターを用いればいいだけの話。須田が表したいのは、そうした「機械的な写し」では醸し出せない何か、だ。

 

 花でも雑草でも、そのあたりに生えている本物のほうが、自分の彫り出す木彫よりも美しいと須田は素直に思うのだそう。ただし、木彫のような人の手が生み出すものには、つくり手が実物を見てああきれいだと感じた気持ちや、なんとか本物の花に近づけたくて試行錯誤してきた熱量、うまくできた暁には多くの人に観てもらい楽しんでもらえるだろうかという期待感。そうしたいろんな想いが込められる。そこに、自然物にはないおもしろみが生じるんじゃないかと考えている。

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 つくりものの花にこそ、表せるものがある。そう信じて朴の木を彫り続けてきた須田悦弘の静かなる世界、ぜひ丘の上の美術館まで足を運んで堪能してみたい。