「ああこういう眺め、見たことある。懐かしくって、何かを思い出しそう」
などと、絵を観て心からうっとりできたら最高だ。東京都美術館で開催中の「プーシキン美術館展――旅するフランス風景画」で、そんな一枚と出逢うことができる。ギュスターヴ・クールベの《山の小屋》という作品だ。
「天使なんて描かない。見たことないから」
山あいの土地につましい住まいが一軒、ぽつりと建っている。戸外に干された洗濯物が風に煽られている。煙突からは煙が細く立ちのぼり、生活の匂いが強く立ち込めてくる。
見やれば向こうに、鈍く銀色に光る山嶺が連なる。実際にはずいぶん遠くに位置しているのだろうけど、眩しい色合いとおどろおどろしい山容が目を引きつけるせいか、間近に迫って見える。
画面全体は、驚くほど細密に描写されているわけでもない。それなのに、外界を眺めたときの「見えるがまま」が、忠実に再現されていると感じられる。これぞリアル、と唸りたくなる。さすがは美術の歴史上、最高度にまで写実を極めた画家クールベによる作品と感嘆する。
クールベはなぜこれほどリアルに、事物を描き表せるのか。
目の前のものをあるがままに描くというのは、画家なら当たり前にできるんだろうと思ってしまうが、そう簡単にはいかない。技術的な問題もあろうけれど、むしろ曇りなくリアルにものを見ること、それがなかなか難しそう。
クールベはその点、徹底していた。彼はみずからをレアリストと規定して、己という物差しを頼りに、目に映るすべてのものを絵画に落とし込もうとした。
時は19世紀半ば。印象派、セザンヌやピカソら、絵画の世界の革命家はまだ世に出ていないころの話だ。アート界の主流は権威と結びついたアカデミズムにあり、宗教的な高揚、教義の解説、為政者の賛美に資するような宗教画や歴史画こそが上等な芸術表現だとされていた。
そんななかにあってクールベは、至高の価値ありとされた絵のテーマがことごとく目に見えないものであることに反発。自分の目でものを見ることに徹し、見たものだけを描いたのだった。
クールベの態度をよく表す言葉が残っている。彼は宗教画によく出てくる天使を例に引いて、こう喝破したそうである。
「これまで生きてきて、羽の生えた人間なんて見たことがない、だから俺はそんなものを描いたりはしない。もしも天使をここに連れてきてくれれば、もちろん描いてやろう」