2月3日、元阪神監督・𠮷田義男氏が亡くなった。91歳だった。阪神初の日本一を実現した𠮷田氏は掛布雅之氏を早くから重用し、“ミスタータイガース”へと育て上げた。2024年9月30日に行われた吉田氏のインタビュー記事を紹介します。

◆◆◆

“ミスタータイガース”を鍛えたトレーニングメニュー

 わたしは昭和49(1974)年オフ、初めて阪神の監督に就任しました。巨人が10連覇達成ならず、現役引退した長嶋茂雄が監督に就いた年です。新監督は大洋が秋山登、広島がジョー・ルーツ(途中から古葉竹識〔こばたけし〕)で激動した「昭和」を表すかのように監督交代が相次ぎました。

グラウンドを見守る𠮷田義男氏(1985年) ©文藝春秋

 その暮れに若手選手の親御さんたちと食事をする機会がありました。掛布が1年目を終えた年で、ほとんどの親が息子のアピールをしてきたが、もっとも印象的だったのが、掛布の父親で中学、高校の野球部監督を経験した泰治(たいじ)さんでした。

ADVERTISEMENT

「雅之はどんなことにも耐えるように鍛えています。どうか息子をレギュラーにしてやってください」

 掛布は千葉・習志野高からドラフト6位で阪神入りします。2年夏に甲子園に出場しましたが、ほとんど無名といえる存在でした。

1985年に日本一の栄冠に輝いた阪神の祝勝会。写真中央で柄杓を持つのが掛布雅之氏 ©文藝春秋

 当時の主力には、田淵幸一、江夏豊、遠井吾郎、和田徹ら大柄がそろっていたので「阪神相撲部屋」と揶揄されたものです。プロ入り時は将来性を評価されていたようですが、当時身長170センチぐらいで小柄の掛布は埋もれていた。わたしはチーム全体が体を絞る必要性を感じたので、東京教育大学(現筑波大)出身で、京都の高校で陸上などを指導していた中川卓爾先生を引き抜き、トレーニングメニューを作ってもらったのです。

 昭和50年1月の自主トレで甲子園球場内に一周400メートルのトラックを設け、コース10周の長距離走を命じました。掛布の高いポテンシャルを見抜くのに時間はかからなかった。ほとんどが立ち止まったり、ギブアップするなか、いつもトップで走りきった。

𠮷田義男氏 ©文藝春秋

 体の強さ、スタミナを感じたものですが、なんといっても彼の“原点”は、2月に高知県安芸市で行われた春季キャンプだったと思います。全体練習後に、ファウルテリトリーでノックを受けるんですが、それが1時間以上続きました。

 藤村隆男さん、安藤統男(もとお)、梅本正之の3人のコーチがノッカーで、1人20分間ずつノックを浴びせた。そりゃあ壮絶な練習でした。今の時代ならパワハラと言われますかな。でも練習は嘘をつかないと言います。父親から聞いた言葉は本当でした。息子は絶対に音を上げなかった。掛布の打力は、足腰を鍛えて磨かれた柔軟性のある守備力が基礎になっているのです。(取材構成・寺尾博和)

※本記事の全文(約1800字)は「文藝春秋」2025年1月号と、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています。(𠮷田義男「掛布雅之 ミスタータイガース」)。この記事が掲載された特集「昭和100年の100人 高度成長とバブル編」では、下記の記事もすべてお読みいただけます。

 

■昭和100年の100人 高度成長とバブル編
千代の富士 新婚旅行はお留守番(秋元久美子)
初代若乃花 箒でバチーンと(前田克巳)
ジャイアント馬場 人間・馬場正平(小橋建太)
沢村忠 真空飛び膝蹴り(細田昌志)