昭和の天才芸人・横山やすし。芸の腕は超一流だったが、その生き方はまさに“掟破り”そのもの。飲酒・暴言トラブルによって番組降板、ついにはヤクザも頼るように…。その人生を、かつて兄弟盃を交わした元ヤクザ・竹垣悟氏の新刊『極道ぶっちゃけ話「山口組四代目のボディガード」の半生記』(清談社Publico)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

兄弟盃を交わす元組長の竹垣氏(右)と横山やすし氏(写真:本人提供)

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兄弟・横山やすしとの思い出

 私のブログにも掲載しているが、芸人の横山やすしと私が兄弟の盃を交わしている写真がある。

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 1994年12月18日の義竜会の事始めのときだったと記憶しているが、代紋は中野会ではなく竹垣家の家紋である。

 いくら稼いでも飲んでしまうやすしは、結局は体を壊して2年後の1996年1月21日に急死した。アルコール依存症による重度の慢性肝炎と聞いているが、亡くなる前にも何度か吐血や緊急入院が報じられていた。天才ゆえにストレスも多かったのだと思う。

 亡くなった夜には奥さまから連絡を受けて、すぐに胡蝶蘭を持って弔問に行ったことを覚えている。この奥さまもすでに亡くなられている。

 当時の世間やマスコミは、芸人の私生活に関してはいまより寛容だったと思うが、やすしは「別格」で、よく騒動を起こしていた。酔ったうえでの暴言などのトラブルによる番組降板も多いので、カネにも困っていた。

かつて名人芸と言われた、横山やすし・西川きよしの漫才 ©文藝春秋

 あちこちで借金をしては、借金取りを追い払うのに中野会長の名を出していたようで、それが本人の耳に入った。やすしと会長は面識があった程度だと思うが、当時の会長は泣く子も黙る勢いだったので、利用されたのだろう。

「竹垣、俺の名前を出さないよう、やすしに言うとけ」

 中野会長からそう言われた私は借金取りを追い払うために、山口組ではなく私の舎弟盃を受けさせたのである。

「暴力団」との関係も、いまほど問題にはならなかったが、さすがに山口組では問題になると考えたからだ。もちろん、その後も借金と酒はやめられなかった。破天荒ではあったが、芸人らしい生き方といえる。

 やすしの通夜と告別式には師匠だった横山ノック(当時は大阪府知事)をはじめ、2000人以上が列席したことからも、人気がうかがえる。

その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。