「速水健朗×おぐらりゅうじ すべてのニュースは賞味期限切れである」のスペシャルゲストに小西康陽さんが登場。小西さんの大ファンである2人とともに、小西さんが音楽雑誌でライターのバイト時代、そしてピチカート・ファイヴが売れなかったころについて語りました。6月6日にリリースされたコンピレーションボックス『素晴らしいアイデア 小西康陽の仕事1986-2018』を中心に、“小西ワークス”の約30年間を振り返ります(後編に続く)。
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僕は、ミュージシャンというより作家になりたかった
小西 本日はよろしくお願いします。
速水・おぐら よろしくお願いします。
速水 まず個人的なことを言うと、1991年に上京したのですが、僕は勝手に小西さんのいる街としての東京に来たという意識が強くありました。三宿WebやオルガンバーなどでもDJ姿をたびたび拝見してました。
小西 ありがとうございます。
おぐら 僕は青山学院大学の経営学部出身なので、小西さんの後輩なんです。
小西 へえ。そうですか。
おぐら いくつか受かった中から青学にしたのは、渋谷にキャンパスがあったのと、「小西康陽が卒業生にいる」というのも理由のひとつでした。
小西 ほんとですか。
おぐら 小西さんも所属していて、初期ピチカート・ファイヴのメンバーが出会った音楽サークル「ベターデイズ」の新歓ライブにも行きましたよ。
小西 もうだいぶ変わっていたでしょう。
おぐら 入学したのが2000年なので、サークルでバンドをやっているような同級生たちには、邦楽だとくるりとかクラムボンが人気でした。
小西 そういう時代ですか。
おぐら 放課後は青山キャンパスから渋谷のZESTに行って、DMRでアナログの再発をチェックして、アプレミディで女の子とお茶して、雑誌「relax」を読んで、夜になるとTHE ROOMとか青山faiに繰り出すという。
小西 おお、いいですね。
おぐら あの頃は夢中でしたけど、いま思えばカタログみたいな大学生活でしたね。
速水 ではさっそく、今日のテーマでもある、小西さんが作詞、作曲、編曲でかかわった楽曲を集めたコンピレーションボックス『素晴らしいアイデア 小西康陽の仕事1986-2018』の話を。
小西 はい。
おぐら 歌手の名前を見ると、南佳孝、水谷麻里、小泉今日子、電気グルーヴ、MURO、慎吾ママ、細川ふみえ、深田恭子、そしてクレモンティーヌにNegiccoと、ものすごい振れ幅なのに、どの楽曲にも小西康陽イズムが貫かれてます。
速水 ピチカートではない、いわゆる外仕事を受けるようになったのは、どういったタイミングだったんでしょうか?
小西 そもそも僕は、ミュージシャンというより作家になりたかったんです。それで、高浪(慶太郎)君たちとデモテープを作って、音楽業界に入ったサークルの先輩の伝手をたどったりしながらレコード会社に持ち込んでみたのですが、まったく聞いてもらえなかった。だけど、同じデモテープのカセットに「ピチカート・ファイヴ」っていう名前を付けて持っていくようになったら、不思議と声がかかるようになったんです。