デビュー前に、音楽雑誌でライターのバイトをやっていた
速水 ピチカートの活動と、職業作家としての作詞や作曲の仕事は並行して始まった感じですか?
小西 正確には、ピチカート・ファイヴのファーストアルバムを聴いたディレクターが作詞の注文をくれました。それが南佳孝さんの『Taste Of Honey』(1987年)です。
速水 失礼ではありますが、そのファーストアルバム『couples』(1987年)は、まったく売れなかった……。
小西 はい、売れませんでしたね。それでも、作詞はほとんど僕がやっていたので、見てくれた人はいたんです。
おぐら 作曲ではなく、作詞家としての仕事が最初なんですね。
小西 先に仕事が来たのは作詞ですね。
速水 手応えはどうだったんですか?
小西 もう手探りで、こんなもんでいいのかな、みたいな感じでしたよ。ただ、印税が入ってきた時には「おっ」って思いました。
速水 重ね重ね失礼ながら、おそらくその頃は収入もそんなになく。
小西 まぁ困ってましたね。
おぐら 筒美京平さんを目指していたということは、わかる人にだけわかればいいというよりも、時代を象徴するような流行歌を作りたいという意識があったんですか?
小西 ありましたよ。でも、そういった職業的な作詞家や作曲家の時代が、その頃には廃れつつあったんですよね。
おぐら 一方のピチカート・ファイヴは、そこまで大ヒットを目指していたわけではない?
小西 売れるはずがない、とは思ってました。だから僕、その頃は音楽じゃ食えないと思って、原稿書きの仕事をいっぱいやってたんです。ちゃんと書き始めたのは86年くらいかな。もっと言うと、ピチカート・ファイヴでデビューする1年くらい前から、音楽雑誌でライターのバイトやってたんですよ。
速水 え~! ミュージシャンにインタビューしたりも?
小西 やりましたよ。で、ある時、とあるアーティストの方にインタビューしたんです。それがなんか、生意気にもイヤだったんですよね。
おぐら インタビュアーという仕事が?
小西 そうではなく、その方の受け答えに、不快なものを感じてしまって。具体的に言うと、その方のアルバムが、あるいくつかのレコードにものすごく影響を受けているのがわかったんです。それは誰が聞いてもわかるのに、その方は一切そのことを言わない。あくまで自分の音楽はオリジナルだって。それに幻滅してしまった。
おぐら なんて小西康陽っぽいエピソードなんだ……。
小西 それがあって、インタビューはするよりも、されるほうがいいよなって思いました。