「今度は情報局に異動しました」アナウンサー→報道記者→アシスタントプロデューサーという“異色の経歴”
――アナウンサーへの思いを抱える中、報道記者としてどう気持ちを切り替えたんですか。
町 「できないことではなくできることを」という発想の転換は、母と生きていた時に自分が心がけていたことで、今、報道で私にできることは何かと考えました。報道局の先輩が「もし医療をやりたいんだったら100人の医者に会って来い」と言ってくれて。
まだ2000年頃ってインターネットも今みたいに便利じゃないから、新聞に出ていた先生や、本を出版された先生に会いに行って取材を積み重ねて、医療を中心とした企画取材も行いました。原点に戻って、パラリンピックの企画であったり、懲りずにいろんな企画を出しました。
あとは「しゃべる」ことにこだわりたかったので、被災地の上空からのヘリコプターの中継を任されたら「町に行かせてよかった」と絶対言わせようと思いました。事件・事故は準備がなかなか難しいんですけど、だからこそ記者の経験を生かして、アナウンサーではないからできるレポートをしようと心がけていました。
私はだいたい10年スパンでターニングポイントがやってきて、母の介護が10年だったんですけど、そのあと報道局にも10年いました。
――そのタイミングでまた会社からは異動を言い渡される。
町 情報局への異動でした。会社って異動させても文句を言わない人を異動させるんですよね。最初の番組は徳光和夫さんがMCを務める『The サンデーNEXT』のアシスタントプロデューサー(AP)でした。
APって簡単な仕事じゃないんですよ。プロデューサーとスタッフ、また他の部署との間の調整役で、控室や車、お弁当の手配だったり、みんなの仕事がスムーズに行くための準備をする大切な裏方なんです。あと徳さんの側にいられたことは、私にとってはすごく勉強になりました。
「お前どうするんだ」「日テレを辞めます」30代で日テレ退職を決意した理由
――どのあたりが徳光さんはすごいのでしょうか。
町 徳さんはとにかくスタッフを大事にするんです。当時はもう70歳になろうっていう、あぐらをかいててもおかしくないような大ベテランなのに、現場のADの名前はみんな覚えていて、しかも大事にする。プロデューサーには逆に文句を言う。
番組でも用意されたものだけをやるだけじゃなく、こういうふうにしたいという思いもちゃんと口にする。本当に番組を愛して、手を抜かずに作っているのを見せてもらいました。徳さんに嫌な思いをさせられた人はいないんじゃないですかね。
――APを1年半務めた後、町さんは日テレを退職されます。
町 私はずっと異動希望に「アナウンス部」と書いていました。それでもAPにするっていう。会社には私の想いは伝わらないんだと思いました。周りの人からは「3年経ったら戻れるよ」と言われて。でも3年たったら40歳。母が倒れた年齢に近くなる。今、自分が倒れたら絶対に後悔するなと思って。
それでもすぐ辞めたわけじゃなく、考えに考えた上で「やっぱりここにいるのは私にとっては時間の無駄でしかない」と思い、退職を決断しました。あと『The サンデーNEXT』自体も終了したんです。このまま次の番組に行ってしまった後に辞めると迷惑がかかるなと思い、そのタイミングで辞めようと思いました。

