元日本テレビのアナウンサーで、現在はフリーアナウンサーとして活動する町亞聖さん(53)。実は彼女は18歳の時から、障がいを持つ母の介護をしていたヤングケアラーだった。
日本テレビ時代にも仕事と介護の両立をしていた町さんだが、職場では「母のことを公表するな」との厳命が……。母の死や父のアルコール依存も経験した彼女が介護に大切だと語る“受援力”とは?(全3回の2回目/3回目に続く)
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母の介護と仕事を両立させた日テレアナウンサー時代
――民放キー局のアナウンサーは激務のイメージですが、お母さんの介護との両立は大変だったのではないですか。
町亞聖さん(以下、町) 日テレのアナウンサー時代は夜のスポーツ番組と途中から早朝の番組を担当していました。確かに忙しかったですが、スポーツ番組で仕事が深夜になれば午前中は家にいられたんです。
なので家族のご飯を作り置きして、昼過ぎに出社してました。取材も野球だと夜だったりするので、私にとっては都合が良かったんです。そこはフレックスに働けるアナウンサーでよかったと思います。
母は家で1人でいる時間がどうしても多いので、私が出る番組をすごく喜んでくれてました。CMの「この番組はご覧のスポンサーの提供でお送りしました」という私の声を聞いて、「ほらほらほら」と気づいてくれたり親孝行にもなりました。
――ただアナウンサーの上司には、お母さんが障がいを持っていることを隠せと言われたそうですね。
町 売名行為になるからと言われました。今の人たちには分からないと思うんですけど、その頃は芸能人とかが介護してる話をすると「それで名前を売ろうとしている」と捉えられた時代だったので。
でも私に母のことを隠せと言ってきた上司自身、実は遠距離で介護をされていたんです。普段は地元にいる家族が親を見ていて、週末になると向こうに帰るということをやられていて。1990年代にそれをやっていたことは、ご本人にとってはすごく負担が大きかったんだと思うんです。でも、そのことを明かしてはいけないと思っていた。プライドもあったと思います。
そんな状況の中で、私が楽しそうに介護の話を周囲に話していた。自分と違う感覚の人が来たと羨ましい部分があったのかもしれません。
母親が子宮頸がんに…病気の母を在宅で看病した理由
――1998年にはお母さんが子宮頸がんになります。
町 入社4年目の6月に分かって、翌年の11月に亡くなりました。母のために入社してから35年ローンを組み、ベランダがついたマンションを購入したんです。最後はそのマンションに連れて帰り看取りました。病院の四角くカーテンで仕切られたあの空間で母を死なせたくないと思ったんです。病院はお見舞いに行くにしても、時間の制限がありますし。