在宅で看病しながら、私も弟も妹もみんな、いつ母とお別れしてもいいように日々を大切に過ごしていました。母に「行ってきます」と言うのはきょうが最後かなと思いながら、家を出ていました。ただその中で働くのも普通だと思っていて、もしかしたら最後は立ち会えないかもしれないと覚悟もしていました。結果、弟はいなかったですが、私と妹、そして父は母の最後に立ち会えました。
――亡くなられた時に去来した思いは?
町 お母さんやっと自由になったね、ですね。不自由がやっぱり多かったので。その体で末期がんになって。でも母は泣いたりしなかったんですよ。もし自分が末期がんになったら「なんで私が」と思ってしまうと思います。言語障がいもあってうまく伝えられなかったのかもしれませんが、本当に穏やかに死を受け入れていた感じでした。
母は最後にふっと父の方を見てニコッと笑って息を引き取ったんですよね。その顔を見た瞬間に、やってあげたかったことはたくさんあったんですけど、結果としていい人生だったのかなって。すごい母だったなって思いました。
「つらいからできなかったんです」母の生前に“やっておくべきだったこと”
――後悔などはありませんでしたか。
町 後でやっておけばよかったなと思ったのは、もっとアルバムを一緒に見ておけばよかったということでした。母が障がい者になってからも、いっぱいいろいろな所に行ったんですよ。でもアルバムはなかなか開けなくて。もう2度と行けないのが分かってるから、勝手にこっちが悲しく、つらいからできなかったんです。
でも、母ももう行けないの分かってるんですよね。だったら、悲しいかもしれないけれど「あんなところに行ったね」と楽しかったことを一緒に振り返ればよかった。同じものを見て、一緒に泣けばよかったなってすごく思いました。思い出を共有してるのは家族だけなので、その思い出を振り返ることをすればよかったなって。
歌人で細胞生物学者の永田和宏さんには「お母さんの前で泣いてよかったんだよ」って言われました。皆さんも同じ状況になったら、本人が一番辛いはずだから周りは元気に笑っていようと思っちゃうじゃないですか?
私もまさにそう思っていて、病室に入る3秒前まで泣いて、でも入った瞬間に「お母さん元気?」と無理していたんです。でも母にも無理しているのが伝わってたと思うんです。そうすると母も泣けないじゃないですか。父は母ががんになってからすごく取り乱したんですが、母にとっては父が悲しんでくれてるのは嬉しかったんだなって思います。
「お母さんが死んだら俺も死ぬ」母親の死後、父親が憔悴して…
――お母さんが亡くなったあと、2005年にはお父さんも亡くなります。
町 いろいろと問題のあった父だったんですが、よく逃げ出さなかったなって。そこだけは褒めてあげたいなと思います。母が重度の障がいを負い、妻が、妻であって妻じゃない状態になったわけですから。あとでいろんな方のケースを聞くと、奥さんの介護をやりきれない人もいたり離婚しちゃうケースもあったりするので。