私の日テレ最後の仕事の日は、番組も最後の日で、オンエアが終わった後に徳さんのお疲れ様会があった日なんです。その会も私が仕切っていたので、その私が辞めると言っちゃうと、徳さんにも気を遣わせると思って、辞めることは黙っていました。

 その会の終盤に、徳さんから「お前どうするんだ」って言われて「日テレを辞めます」って言ったら「うわあ。お前、俺を驚かすなよ。心臓に悪いな」と言ってくれて。しゃべりの仕事に戻りますと伝えると「わかった。何かあったら言えよ」と言ってもらいました。

 決して円満に退社をしたわけではないですけど、最後に徳さんにちゃんと仕事を見せられて辞めたのはよかったです。徳さんには私の著書『十年介護』の文庫版が出る時にコメントを書いてもらいました。

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「私にはこれしかないんです」アナウンサーの仕事を諦められなかったワケ

――2011年にフリーとなり、再びアナウンサーの仕事に戻りました。やはりやりがいがあると感じていらっしゃいますか。

 途中12年のブランクはありますが、今年30周年なんですよ。今も全然発展途上というか。ポジティブにもネガティブにも私にはこれしかないんですよね。

 実は専業主婦が向いているとも思うんですよ。家事全般は完璧にできますし、玄関に季節の飾りを置いたりとか、そういうことに喜びを感じるタイプで。子供も大好きなんですよね。なんで運命の人に出会えなかったんだろうと思って(笑)。

 でも母が倒れてアナウンサーになった時ぐらいから、母とは違う人生を送るんだろうなとは感じていました。伝えることは、かけがえのない自分の役割だと思っていますし、伝えることがなくなったら私の役目は終わりかなと思うんですけど、まだ伝えなきゃいけないことがたくさんあるのは間違いないので。

日テレアナウンサー時代の町亞聖さん(写真=本人提供)

――町さんは名刺に「元ヤングケアラー」と入れていらっしゃいますし、講演会であったり、現在も活動をされています。現状でヤングケアラー問題の中で最大の課題というか、早急に解決してほしいことはありますか。

 最大の課題は、学校の先生が自分たちの限界に気付くことだと思います。進学であったり子供の将来を一緒に考える支援は先生の大事な役割です。でも同時に親へのケアをすることは先生たちだけでは難しい。

 家庭の問題を解決するには地域にいる専門職と一緒にチームになって取り組む必要があります。子供が何に悩んでいるかを先生が聞き取った上で、必要な支援につなげるということをやってほしい。親が抱えている問題を解決しなければヤングケアラーはそのまま大人のケアラーになります。

町さんは18歳のときから約10年間、障がいを持つ母親の介護をしていた(写真=本人提供)

 学校の先生たちも社会をあまりよく知りません。若い先生たちにとっては学校が最初の社会なので。医療や介護職などが連携してサポートする地域包括ケアシステムであったり、重度の障がいや難病の人を支援する制度など、いろいろな支援サービスや制度がありますが、先生たちも知識や情報を持ってないのが現状です。

 学校で学生を前に講演をする時には、先生にも「地域の専門職と繋がることから始めてください」とお願いしています。それは難しいことではないと思います。大事なのは役割分担であり、それこそ「受援力」なのかなと。先生たちも自分たちだけで抱えるのではなく、いろいろな人に助けを求めてほしいです。それが子供たちの未来のためになるということを知ってもらえたらと思います。

撮影=平松市聖/文藝春秋

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