今日の日本にはない、想像を絶する身体刑。今日と明らかに異なる社会が江戸時代であった。この事例で関係者がみな重罰に処せられたのは、これがたんなる傷害事件ではなく、当時の社会で大罪とされた不義密通だったからである。極端な男尊女卑社会であった江戸時代だが、それでも極刑に処されることを知りながら、男を手玉に取る女性が存在したことを教えてくれる事例でもある。

 これら以外にも、男女の仲のもつれから起きた事件は「犯科帳」に数多く記録されている。その中からいくつか紹介していこう。

心中の結末

 小川町の清川甚兵衛の下人・喜太郎(23歳)と同家の下女「なつ」は密通していたが、主人にそのことを知られてしまった。二人は天和4(1684)年正月6日夜に心中することを決意し、まず喜太郎が「なつ」を刺殺した。だが喜太郎は自害しようとしたが死にきれなかった。喜太郎は町内の乙名、組頭から奉行所に訴えられ、同七日に刎首となった(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』第1巻 46頁)。自由恋愛が認められない時代、この二人のように自ら死を選ばざるを得ない人は少なくなかった。

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身元不明の死体

 つぎのような例もある。晧台寺境内にある耕雲庵の小屋で死体が見つかった。奉行所から検使が派遣され、相対死(心中)であることが確認された。遺体の身元確認に立ち会ったのは耕雲庵に住む僧・東岫および彼の下人・清蔵、そして遊女町・丸山町の揚屋の主人「はる」、同じく遊女町・寄合町の遊女屋筑後屋の主人・平右衛門、死んだ遊女・花園の抱遣手であった「つね」、花園の伯父・源次平と姉「けん」の7名。彼らの証言から、死者は住所不定の僧と筑後屋平右衛門の抱遊女・花園であることが判明した。

 身元が判明したのはよかったが、「二人の遺体は捨て置いた(両人之死骸は引捨申付候)」とあるから、家族などが遺体を引き取り埋葬することは叶わなかったことがわかる(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』第5巻 290頁)。

 ここで取り上げた者たちが、愛をつらぬくことの代償を知らなかったわけがないだろう。時代や社会の違いに関係なく理性を麻痺させる愛の力を、こうした事例は改めて教えてくれる(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』第1巻 243~244頁)。

次の記事に続く 「妻を殺さず逃がしたせいで問題に…」密通した妻と相手を夫が斬り殺すのが“当たり前”だった江戸時代の「妻仇討ち」事件