江戸時代の“大都会”長崎で行われた「裁き」を記録した「犯科帳」。長崎奉行所が行った200年分の刑罰の申し渡し、不処罰の申し渡しが記されている貴重な資料である。
ここでは、そんな「犯科帳」を読み解く『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』(講談社現代新書)から一部を抜粋。喧嘩をしただけなのに、男性二人が死刑を言い渡されたのはなぜか? その理由は、現代とは違う江戸時代の貞操観念にあった――。(全4回の2回目/続きを読む)
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ひとりの女に翻弄された男たち
江戸時代には、夫婦関係以外のいわゆる「自由恋愛」は認められておらず、そのような関係は「不義密通」として、それだけでも処罰の対象とされていた。以下はそのような時代における、ある意味において悲劇とも言うべき事例である。
寛文12(1672)年閏6月17日の晩、本鍛冶屋町の長右衛門(29歳)が平右衛門(32歳)と喧嘩して怪我を負わせた。これだけだと単なる傷害事件に過ぎないが、長右衛門と平右衛門の二人は刎首(ふんしゅ=首をはねる刑罰)獄門となった。なぜこうした重罰になったのか。
取り調べによると、喧嘩になるまでにはつぎのような経緯があった。長右衛門は、当年16の「みつ」という少女と、彼女が13歳のころから密通していた。しかし事件の前年の3月ごろ、平右衛門と同町在住の八左衛門(19歳)から、「みつ」は長右衛門を密夫としながら並行して江戸町在住の三郎兵衛(22歳)とも密通していると知らされた。そのため長右衛門は三郎兵衛に「みつ」が自分と密通していることを伝え、彼女と交際しないようにさせた上で、自身も今後は「みつ」とは会わないと「みつ」の親・熊十左衛門に伝えた。これでこの話が収まっていれば長右衛門の判断は賢明だったと言ってよいだろう。だが、この話には、続きがある。
なんと、三郎兵衛と「みつ」の密通を長右衛門に注進した八左衛門もまた、前年9月から「みつ」と密通していたのである。これが長右衛門の知るところとなり、長右衛門は事情を確認したいと平右衛門、八左衛門に申し入れた。二人して「みつ」の密通を長右衛門に注進したことからもわかるように、この二人はかねてから入魂(じっこん)の仲だった。二人で申し合わせた上、八左衛門がまだ若いことから平右衛門ひとりが長右衛門方を訪れた。そこで長右衛門が平右衛門と喧嘩になり平右衛門に怪我を負わせたのである。
この傷害事件がきっかけとして密通の件が明らかになり、平右衛門は「みつ」と通じてはいなかったが長右衛門とともに喧嘩両成敗として刎首獄門、八左衛門は懲らしめとして牢舎で陰茎切り、「みつ」も牢舎で劓刑(鼻そぎ)に処された。三郎兵衛も警(いまし)めとして1ヵ月程度の過怠牢(敲などの代わりに入牢させた刑罰)となっている(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』第1巻 19頁)。
