江戸時代の“大都会”長崎で行われた「裁き」を記録した「犯科帳」。長崎奉行所が行った200年分の刑罰の申し渡し、不処罰の申し渡しが記されている貴重な資料である。
ここでは、そんな「犯科帳」を読み解く『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』(講談社現代新書)から一部を抜粋。当時は、密通した妻とその相手を夫が殺してもよい時代だった。「犯科帳」に記された「妻仇討ち」事件の数々を紹介する。(全4回の3回目/続きを読む)
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妻仇討ち
ここまでの事例では、互いに妻や夫がいなかった。だがそうでない場合には、今の時代では考えられないような厄介なことが起きていた。
元禄2(1689)年12月9日、髪結いの金六は、女房が弟子の六兵衛と密通していることを知り、同夜、六兵衛を斬り殺した。女房は逃げ去り、町の者が金六を捕まえて奉行所に差し出した。詳細はわからないが女房は見つかり、奉行所でことの次第が二人に糺され、六兵衛と女房の密通が明らかになった。これにより女房は翌10日、西坂(長崎の刑場)で死罪となった。
六兵衛を斬り殺した金六は、密通した妻とその相手を夫が殺してもよい時代だったのでお咎めなしとなっている(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』第1巻66頁。氏家幹人『不義密通』)。
また出来大工町の住人・三助は、享保11(1726)年7月28日、同店(奉公先が同じ)の長兵衛と女房の不義を見届け、両人を斬り殺した。二人の親兄弟を呼んで吟味すると、かねて密通していたのは紛れもない事実であり、遺体は取り捨てることが命じられ、三助は町預となった。取り捨てるとは遺体を葬らないことであり、死者への最も不名誉な仕打ちであった。
8月3日、再度呼び出し吟味したところ、不義は事実であったことが確認されたので、奉行所は親兄弟にその証言を証文にして提出させている。そして三助に対しては、残忍な殺し方であったのか、「強過たる仕方」を𠮟り、軽はずみなことはしないようにと伝えた上で許している(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』第1巻228頁)。
