妻を殺さず逃がしたせいで問題になった事例も
つぎの事例もある。寛保3(1743)年9月23日の夜、後藤新左衛門の奉公人・小松貞之進が、唐方稽古通事・彭城義藤太の留守宅を訪れ、義藤太の妻と密会した。そこになんと、義藤太が帰宅した。義藤太は即座に二人を打ち捨てようと思ったが、貞之進が深く詫びるので思いとどまり、その場では許した。この時、舅の河辺遊仙に事情を伝えた上で妻を彼に預けている。
これで丸く収まればよかった。だがそうはならなかった。義藤太の妻と貞之進の気持ちは冷めず、早くも5日後の28日夜、松森天神社内の水茶屋で密会した。運悪くというべきか、運良くというべきか、願掛けのため松森天神に参詣した義藤太が二人の密会を見てしまった。さすがに義藤太も堪忍袋の緒が切れ、その場で貞之進を斬り殺した。妻は逃げ去り、難を逃れた。
義藤太は、ことの次第を月番町年寄・福田六左衛門に報告した。問題になったのは、最初に密会を知った時に打ち留めなかったこと、そして二度目にも妻を逃してしまったことだった。このことが奉行所に「未熟」と判断され、義藤太は親類宅に預けられ、30日押し込められた。翌年4月4日、元のように勤めることを許されたが、妻が見つかり次第討ち取るか、捕らえて奉行へ差し出すようにと命じられている(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』第2巻12頁)。その後、この「妻仇討ち」がどうなったのかは不明である。
義藤太は妻に対する想いから、罪を咎めず義父に妻を預けたのだった。しかし当時の基準ではこの判断は甘いと言われても仕方のないことだった。したがって義藤太はついには自らの手を汚すはめになってしまった。相手によっては返り討ちにされる可能性もあったはずだが、社会規範が守られなければそれが罪となる時代である。このような価値観は現代人には理解しがたいが、江戸時代でも後に考えが変わったようである。寛政八(1796)年、幕府は妻仇討ちを避けるべきだと教示するようになった(平松義郎『江戸の罪と罰』49頁)。
