江戸時代、吉原人気を支えた遊女のレビュー本こと「遊女評判記」はいったいどんな人たちが書いていたのか? その驚きの正体を、歴史研究者の高木まどか氏の新刊『吉原遊廓―遊女と客の人間模様―』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)

写真はイメージ ©weapons_photograph/イメージマート

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「遊女評判記」の意外な作者

 それでは、遊女評判記は、どんな人によって書かれていたのでしょう。

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 序文や跋文にはたいてい作者の妙なペンネームだけが記されていて、実際にどんな人物であったかは、はっきりしない場合がほとんどです。おそらくは、遊女の生活にある程度関わり合いをもったひとたちだろうと考えられています。たとえば、遊廓内の店の関係者、もしくは遊女をしばしば買った客などです。

 この推測にはいろいろ理由があるのですが、寛文以降の作者の性格がよくわかる著名な一節を紹介しましょう。『長崎土産』(延宝九年〈一六八一〉)の記述です。これは長崎丸山遊廓を対象とした遊女評判記ですが、作者自身は上方出身であると述べています。

『長崎土産』を書く自分もそうであるが、遊廓で遊び金銭を剥ぎ取られた者が上方にも多い。しかし、こりずに遊女評判記を板行(刊行)し、自ら遊女を買う金はないから物持ちの若人をそそのかして取り巻きとなり、太鼓持とも客ともわからず遊廓内をさまよい歩く。

 遊女屋も揚屋も内情を覗かれるのは嫌だが、強くあたって遊女評判記に悪口を書かれても困る。それに、ひやかしで来たような若い人を伴って登楼してくれる人でもあるから許そう、などといって、皆作者がうろうろしていても知らん顔をする。

 ようは、遊廓で金を遣い果たしたけれど、それでも遊廓を離れずどうにか入り浸っていたようなひとが遊女評判記を書いていたんですね。金を遣い果たすというのは、余程のことです。

 

 きっとお客として通っていた頃は羽振りよく、遊女はもちろん、お店の人たちもおこぼれに与かっていた筈です。商売とはいえそんなふうに金ヅルにした元お客がうろうろしていたら、見て見ぬ振りをしたくなるのが人情でしょう。この『長崎土産』の作者も「悪性大臣嶋原金捨」なんて名乗っていますから、京都の島原遊廓で金を遣い果たし、腫れ物扱いをうけていたことが想像されます。

 こんなふうに遊女評判記は、店の者なのか客なのかよくわからない、けれど遊女の生活空間に関わり合いをもったひとたちによって担われていました。彼らがいくら遊廓に精通していたからといって、数多くの遊女を一人ひとり把握し、詳しい評判を書ける訳がありません。遊女評判記を書くには、当然ながら、協力者の存在が不可欠でした。