国内外の老若男女を集める人気観光スポットの「浅草」だが、かつては街娼と私娼がひしめいていた淫靡な時代も…。浅草の今昔を、ノンフィクション作家の八木澤高明氏のベストセラー『江戸・東京色街入門』(実業之日本社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

かつての浅草はどんな街だったのか…。写真はイメージ ©getty

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 寛政年間といえば、今から約200年ほど前、江戸時代中期になる。その頃、上野広小路や浅草寺の境内などの神社仏閣の周囲には、水茶屋と呼ばれる今でいう喫茶店のような店が軒を連ねていた。

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 浅草寺の二天門のあたりには、難波屋という有名な茶店があって、おきたという名の看板娘がいた。

 彼女は浮世絵にも描かれ、寛政の三大美人のひとりともいわれている。どの水茶屋にも看板娘がいて、客の男たちを呼び寄せたのだった。

 江戸は職人や参勤交代で赴任する武士など、男臭い街であり、吉原や江戸四宿などの幕府公認の遊廓や岡場所と呼ばれた官許以外の遊廓が、男たちの癒しの場となっていたが水茶屋もそうした役割の一端を担っていた。お茶代は八文で、現代の価値に換算すれば、約250円ほど。男たちは見栄を張って、十倍以上の額を置いていくものも少なくなかったという。

 当初看板娘を売り物にした水茶屋は、時代を経るにつれ、店の奥にこっそりと部屋を設けて、春を売る場へと変容していったところも少なくなかった。

 そうした水茶屋は、江戸時代末期の天保の改革で、厳しい取り締りに遭い、街からは消えていったという。