「上野に娼婦が溢れたのは、戦後だけの話ではない。もとを辿ると、江戸の街が大きく発展した江戸時代にまで遡る」――観光地としても名高い上野近辺。しかしかつては街娼・私娼たちが集まる怪しい街だった理由とは…。その歴史背景を、ノンフィクション作家の八木澤高明氏のベストセラー『江戸・東京色街入門』(実業之日本社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)
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「写真なんか撮っちゃ駄目だよ」
今から20年以上前のこと。当時、20歳そこそこだった私は、上野駅で靴磨きをしていた初老の女性にカメラを向けた。すると、その女性は頑なに拒絶した。
肌の白さと東北訛りの口調が、今もはっきりと記憶に刻まれている。現在の上野駅を歩いて、あの靴磨きの女性がいた場所はどこだったのかと、探してみたが、靴磨きの女性はおろか、カメラを向けた場所もわからずじまいだった。
どことなく暗さがあった駅の地下道は、おしゃれなテナントなどが入り、過去のイメージは急速に失われつつある。かつての上野駅の姿を活写した写真家本橋成一の『上野駅の幕間』という写真集がある。その中には駅で立ち小便をする男の姿も収められているが、そんな光景はもうどこにも残っていない。過去の上野駅は低い地下道の天井ぐらいにしか名残をとどめていない。
街娼たちで占められた戦後の上野
上野は戦後からしばらく、東京でも有数のパンパンと呼ばれる街娼たちの街だった。上野駅前西郷会館(現在のUENO3153ビル)から京成上野駅入口へと繋がる表通りには、上野でも一番値が高い街娼たちが立っていたという。そこから上野の山の暗がりに向かうにつれて女の質が下がっていったそうだ。
そこを歩いてみると、街娼はおろか、日本人の姿より外国からの観光客の方が多いのではないか。テレフォンカードを売るイラン人やホームレスのテントが建っていた頃の暗いイメージは薄れている。公園の目まぐるしく変化する様は、今、目の前に存在する光景すら、すでに幻のように感じさせる。
ちなみに、戦後上野の街で体を売っていた娼婦たちの年齢は8割が25歳までの若い女たちで占められていたという。