戦後の混乱期ということもあり、手っ取り早く稼ぎ、生き抜くためには売春が有効な手段だったのである。彼女たちの中には、父母を空襲で失い、自活するために体を売る者も少なくなかった。
上野に娼婦が溢れたのは、戦後だけの話ではない。もとを辿ると、江戸の街が大きく発展した江戸時代にまで遡る。
「蓮の茶屋」と呼ばれたラブホテル街
上野恩賜公園の不忍池はもともと、東京湾の入り江の名残で、海が引いて現在の姿となった。江戸時代までは、不忍池から流れ出た忍川が隅田川へと繋がっていた。池も今よりは大きく、池の南を走る不忍通りぐらいまで広がっていた。ちょうど仲町通りのあたりが池畔になっていた。
現在の仲町通りは、キャバクラやフィリピンパブやタイパブなど、夜の帳が下りるとともに、艶やかなネオンが輝いている。そのルーツを辿れば、江戸時代の仲町通り周辺に建っていた出会い茶屋と呼ばれる、今でいうラブホテルに行き着く。江戸の人々は池を眺めながら逢い引きしたのだ。これらの出会い茶屋は不忍池の蓮が有名だったことから、別名「蓮の茶屋」とも呼ばれた。
百万人都市であった江戸において、不忍池は、雑踏から離れ、庶民の隠れ家でもあった。そして、上野駅周辺には、寛永寺の参拝客で賑わったことから、その客などを目当てにした、けころと呼ばれた私娼たちが多くいた。客を茶屋に連れ込む私娼もいたことだろう。神社仏閣が人を呼び、その周辺に私娼たちが集まるのは、音羽や芝など江戸時代の岡場所にみられるパターンである。
私娼たちがたむろした背景には、上野からほど近い下谷山崎町(現在の東上野四丁目あたり)に乞胸(ごうむね)と呼ばれた大道芸人、願人坊主(がんにんぼうず)、角兵衛獅子(かくべえじし)など、江戸時代の支配階級である武士、幕府や藩を支えた農民といった常民ではない人々が多く暮らしていたこととも無縁ではあるまい。下谷山崎町は、明治時代に入ると、都市へと流入してきた人々のアジールとなり、帝都三大スラムのひとつとなるが、すでに江戸時代、その流れが形づくられていたのだ。