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街娼と私娼がひしめいていた浅草

 難波屋があった浅草寺の二天門へと足を運んだ。

 銀座線の浅草駅で降りて、雷門に向かうと、人力車引きや外国人の観光客で溢れていた。

 飛び交う言葉も様々で、英語はもとより、耳を澄ましていると、タイ語やスペイン語も聞こえてくる。雷門をくぐって、仲見世を歩き、浅草寺の境内を抜けると、右手に二天門がある。

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 門のまわりには土産物屋があって、外国人観光客の姿も見かけるが、雷門に比べたらその数は少なく、周囲はひっそりとしている。

 建物の歴史からみれば、二天門は雷門より古い歴史を持っている。

 門が建てられたのは江戸時代初期の元和4年(1618)のことだった。浅草寺は何度か大火に見舞われるが、二天門は炎上を免れ、今日にいたる。門からほど近い場所には木造の古い連れ込み宿があった。浅草寺周辺というのは、戦後から立ちんぼたちが多くいたことでも知られている。中には男娼もいて、夜の商売人たちは、客を掴むと、連れ込み宿に客と入ったのだった。

 浅草は、街娼ばかりでなく、戦前には銘酒屋という、飲み屋を装い私娼たちを置いた店が数多くあった。

 特に銘酒屋が多かったのが、ストリップ劇場の浅草ロック座がある六区(浅草公園六区)である。ちなみに六区は、今ではこの浅草ロック座しかないが、もともとは十軒以上のストリップ劇場が建ち並ぶストリップの中心地であった。

ロック座に訪れた、作家の永井荷風氏 ©文藝春秋

 ストリップは戦後の新宿で産声をあげているが、ここ浅草で隆盛を迎え、ビートたけしや萩本欽一、渥美清といった芸人たちの修行の場となったことでも知られている。