夫を殺されても生きるためには……

 最後に、その弱い社会的立場ゆえ、夫婦の関係を犠牲にしても生きることを優先せざるを得なかった哀しい「妻」の事例を紹介したい。

 享保9(1724)年8月13日の夜、北馬町の乙名・高野善太郎が同町の住人・左助を斬り殺す事件が起きた。知らせを受けた奉行所が善太郎を呼び出し詮議したところ、乱心であったことは間違いなく、16日、善太郎は揚屋に入れられた。

 殺害に至った経緯は「犯科帳」からはわからない。だが、その後、夫を殺害された左助の女房が奉行所に願書を持ってきた。ここまでの話だと、女房は善太郎への極刑を嘆願したのだと思うだろう。だが事実は逆で、夫を殺害した善太郎の助命嘆願であった。

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 左助は善太郎の親である善右衛門に数年仕えた後、今では善太郎に仕え、夫婦は彼からの賃金で暮らしていた。つまり左助は長年仕えてきたその当の主人に殺されたのである。したがって女房が善太郎を憎む方が自然ではないかと思うだろう。

 しかし女房は夫の死よりも現実の生活を見ていた。左助には親類がなく、善太郎が罰を受けてしまうと幼子を抱えた女房は生きてゆけなくなる。被害者家族保護の仕組みがない当時、この女房の判断は理解されるものだったのだろう。経緯は不明だが、女房の動きに呼応するかのように北馬町組頭、そして組合乙名たちも奉行所に善太郎の助命を願い出た。

©Yuto.photographerイメージマート

 奉行所はこれらの助命願いを江戸に知らせた。江戸の判断は助命願いを受け入れるというものだった。善太郎には乱心者として押し込めが申し渡され、善太郎の親・善右衛門に渡された(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』第1巻214頁)。おそらくこの処分により左助の家族の家計は守られたのだろう。

 今日、貧困児童が社会問題化しているが、その多くはひとり親世帯で、特に母子家庭は収入が低いとされている。女性の自立が今以上に困難だった社会で生き抜くことは、今からは想像できないほどの苦難であったに違いない。左助の幼子の年齢はわからない。もし自分の置かれた状況とこうした経緯がわかる年齢であったとしたら、その心境はいかばかりであったことか。