没後1年を迎えた世界的指揮者・小澤征爾。いわゆる「N響事件」が、本格的に世界へ飛び出すきっかけとなったとも言われるが、その真相はどのようなものだったのか。長年取材を続けてきたジャーナリストによる本格評伝『タクトは踊る 風雲児・小澤征爾の生涯』(2月26日発売)から一部抜粋してお届けします。

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ひとりぼっちの写真はなぜ撮られたか

 NHK交響楽団の12月の定期演奏会初日が開かれることになっていた11日夕刻、小澤は東京文化会館に現れ館長に息巻いていた。館長は演奏会中止のために、小澤の会館入りを拒んでいた。

「あなた、そうじゃない。NHKとN響が勝手に演奏会を中止したんだ。契約はまだ切れていない。ぼくは指揮者としての義務を果たすために会場へ来たんです」

 会館に楽員は集まって来ず、また聴衆が集まる気配もなかった。

 街がクリスマスと年末商戦で賑わうなか、この翌日から、その華やぎとはまったく反対の記事が新聞各紙に掲載されつづけた。

 毎日新聞は「裏から見た『N響』騒動」(12月12日)、朝日新聞は「小澤征爾氏ボイコットの騒動 互いのエリート意識」(同24日)との見出しである。

「N響事件」の手記(週刊文春1962年12月24日号)

 62年のその日のことを、N響会員だった桐朋生のヴァイオリニスト和波孝禧は明確に記憶している。

「9月にN響を指揮した小澤さんの『幻想交響曲』は素晴らしかった。『幻想』といえば、ボストン交響楽団の音楽監督をつとめたシャルル・ミュンシュのものが最高とされていますが、それをアメリカで学んだ小澤さんですからね。

 12月の定期も楽しみにしていたのですが、その前日『電報です』と。どこからかと思ったら、N響からでした」

 内容は、翌日からの定期演奏会と年末の第九公演が中止となったという報せだった。

 N響は当日に新聞広告も出し、前日には演奏会中止の電報を全N響会員に向けて打ったわけだった。小澤にもその旨は伝えられていたにもかかわらず、その当日の夕方、幻の演奏会の開始時刻に間に合うように小澤は会館に向かったのだ。新聞記者が小澤の行動を追っていた。

 時間をさかのぼって、その日の朝も、演奏会が中止されなければ総稽古開始となるはずだった。

 10時に間に合うようにと、小澤は上野の東京文化会館に向かった。

 ふだんの稽古のときはN響から車が手配されるが、すでに演奏会中止とされたため、この日は末弟の幹雄が川崎の自宅から車を出し、小澤の新居へ迎えに行った。

 運転しながら幹雄は小澤を励ました。

「両親のことは心配しなくていいぜ。兄貴の信ずるままにやればいい」

 征爾ははじめ冷静だったが、会館に着いて自分の靴音だけが響くステージに立ったとたん怒りを爆発させた。

 この日の朝は、会館に入ることができたのである。