小澤はマスコミ関係者と合流して、ガランとした会館で写真撮影に応じていた。カメラマンは指揮台にたった一人で立つ小澤を撮影すべく、ステージ奥から指揮者と誰一人いない客席にレンズを向けて、シャッターを押し続けた。

 それは小澤がN響からボイコットされた証拠を示す、若い指揮者の孤独な戦いを象徴する写真となる。これによって、N響は権威主義、あるいは若い才能をいじめる体質と世間に流布されることになったのである。

 取材を受けた小澤は会館をあとにし、日本フィルハーモニー交響楽団の演奏会に招かれているシャルル・ミュンシュに会いに行った。ミュンシュは先立って行われた記者会見では「小澤問題の事情は知らない」と答えていたが、小澤が現れて直接、窮状を訴えると「おまえの前途は洋々としている」と、彼らしい素っ気なさを込めた言葉で慰めてくれた。

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タクトは踊る 風雲児・小澤征爾の生涯

 ミュンシュに会った後、小澤は自宅で茫然自失の状態でいた。そこに夕刻、浅利慶太と音楽評論家の安倍寧が訪ねてきた。浅利はN響との間がうまく行っていないことを小澤から相談され、覚え書き作成にも関わっていた。そこで浅利はハッパをかけたと自著『時の光の中で』に書き残している。

「征爾、燕尾服に着替えろ。文化会館に行くんだ」

「だって今日は演奏会はないんだよ」

「馬鹿だな、それはNHKの論理だ。君は契約の履行を求めた。だから君は行くんだ、文化会館に」

 活を入れられた小澤は顔を引き締めて立ち上がった。小澤が出かけると、安倍が各新聞社に電話をした。

「小澤征爾は契約通り、今、文化会館に向かいました」

 同会館の楽屋口にまもなく社会部記者たちが集まってきた。騒然とした雰囲気に会館側も警戒を強めた。

 つまり、小澤はこの日、夕方ふたたび燕尾服をかついで会館に向かったわけである。

 小澤は館長と楽屋口のロビーで、「楽屋を貸せ、貸さぬ」の押し問答を20分ほど続けた。しかし結局、会館側は「N響側から演奏会中止と伝えられている」と主張して、夕方は会館の楽屋入りすら拒まれた。新聞記者たちを前に小澤は油っ気のない長髪頭を抱えた。

「僕、本当のところ、困っちゃった。ノー・アイデアなんです」

 現場を目撃した記者たちは、このシーンを翌日朝刊で報道することになるのだが、午前中に撮影された小澤だけがステージに立つひとりぼっちの写真は掲載されていない。朝日新聞に掲載されたのは、楽屋に入れずロビーの椅子に座っている写真である。毎日新聞では正面からの証明写真のような顔写真が使われている。また両紙は公平に、小澤にもN響にも肩入れすることなく報じている。

 では、有名となった小澤が一人で指揮台に立つ、N響からボイコットされた孤独さを際立たせる写真は、いったいどういう経緯で、誰に撮られたのか。

(第2章「N響事件」より)

【プロフィール】
中丸美繪(なかまる・よしえ)
斎藤秀雄没後50年の2024年、『斎藤秀雄 レジェンドになった教育家―音楽のなかに言葉が聞こえる』(決定版)を刊行。原本となった『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯』(1996年刊行)で日本エッセイスト・クラブ賞、ミュージック・ペンクラブ賞。2009年『オーケストラ、それは我なり―朝比奈隆 四つの試練』で織田作之助賞大賞。他の著書に『鍵盤の天皇―井口基成とその血族』『杉村春子―女優として、女として』『日本航空一期生』など。慶應義塾大学卒業。日本航空勤務を経て東宝演劇部戯曲研究科9期。

タクトは踊る 風雲児・小澤征爾の生涯

中丸 美繪

文藝春秋

2025年2月26日 発売

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