没後1年を迎えた世界的指揮者・小澤征爾。その規格外のスケールの原点は、幼少期を過ごした中国にあった。長年取材を続けてきたジャーナリストによる本格評伝『タクトは踊る 風雲児・小澤征爾の生涯』(2月26日発売)から一部抜粋してお届けします。

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生まれは中国・旧奉天

 2001年1月、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤー・コンサートに小澤が出演した。この年の9月に、世界最高峰のオペラハウスであるウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任することを見すえての登場と思われた。何度もこのコンサートに登場する指揮者がいるなかで、世界中でタクトを振ってきた小澤が、初登場というほうがむしろ驚きだった。

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 毎年正月のニューイヤー・コンサートでは、演奏中に笑いをとるような演出もある。世界に同時中継されるために、ステージにはいつも以上に強いスポットライトが当てられ、むせかえるように飾りつけられた花々や着飾った聴衆たちが、新年の高揚感を伝えてくる。〈世界のオザワ〉の初登場ではどんな趣向がほどこされるのか。

 シュトラウスの軽快な曲がつぎつぎと演奏され、アンコールまで進んだところで、団員が立ち上がり、まず英語で、フランス語で……と世界各国の言語をつかって新年を寿(ことほ)いだ。そして「新年アケマシテオメデトウゴザイマス」と日本語で挨拶をしたのはコンサートマスターのライナー・キュッヒルで、最後が小澤だった。

「新年好!」(「チンニェンハオ!」)

 日本語でなく、中国語である。このとき中国の人口が世界一だったためだろうか。

 小澤の公式プロフィールを見ると、必ず冒頭に〈1935年、中国のシャンヤン(旧・奉天)生まれ〉と書かれている。ネット上に書かれた英語のプロフィールを読んだことがあるが、これが直訳されていて、これでは小澤が中国人と思われても不思議ではないと感じたことがあった。

タクトは踊る 風雲児・小澤征爾の生涯

 さらに、この挨拶で彼が中国人という認識をもった人が多かったと思うのは、つぎのような後日譚からである。

 この翌月、小澤はウィーン国立歌劇場で恒例の舞踏会にデビューし、続いて歌劇「イェヌーファ」を指揮した。9月の音楽監督就任だったが、ウィーン入りしたのは遅れて11月となった。

 年末にはオーストリア・テレビ2チャンネルが「小澤征爾│巨匠│先生│生徒」と題するドキュメンタリーを放映し、出生から、長野県松本市のフェスティバルやアメリカでの活動を紹介した。番組の最後に小澤がわざわざ「ぼくは日本人です」と語った。オーストリアでは、国の象徴といえるウィーン国立歌劇場の新音楽監督は中国人と思っていた国民が多かったため、それを否定するために最後に、小澤自身が「日本人」と話す場面を挿入したのだ。