常人の想像を超える突飛な行動
小澤は、典型的日本人というより、行動形態は大陸的といえる。ときには常人の想像力の範疇を超える突飛な行動も起こしてきた。
その根源は中国に原風景をもっているからだろうか。小澤の、いや小澤家の中国に対する思い入れは強い。母さくらは「おとうさんも私も中国に骨を埋めるつもりでいました」と振り返っていて、父開作は戦後、中国入りを模索していて、お前は音楽家なんだから政治に関係なくいけるはずだと言い続けた。小澤は文化大革命の最中から中国入りを模索し、一九七六年にはテレビ番組の企画で、征爾とさくら、俊夫の三人で北京などを訪ね、住んでいた家を訪問することもできた。北京の楽団の練習場に拍手で迎えられた小澤は、「ぼくにとって今日がいちばん、音楽家になって嬉しい日です」と絶句し、人目もはばからず大粒の涙を流した。場内が水を打ったように静まりかえった。小澤は途切れ途切れに語りはじめた。
東洋人でありながら西洋の音楽を勉強してさまざまな国で演奏活動をしているが、その間には人には言うことのできない苦しいことがあった。そんなとき中国の音楽家の皆さんはどんな風に音楽をしているのか、といつも考えてきたと話した。
中国のオーケストラに相対したとき、小澤に「共生感」が溢れ出してきたのだ。その言葉は小澤が好んで使う言葉だった。
「最後にもう一回申し上げますけど、ぼくは音楽家になって今日がもっとも幸せな日だと思います。どうもありがとう」(萩元晴彦「北京の小澤征爾」「中央公論」1979年5月号)
中国は小澤家にとって忘れられない幸せな思い出の地であり、小澤の記憶も北京から始まっている。
(第1章「スクーターと貨物船で」より)
【プロフィール】
中丸美繪(なかまる・よしえ)
斎藤秀雄没後50年の2024年、『斎藤秀雄 レジェンドになった教育家―音楽のなかに言葉が聞こえる』(決定版)を刊行。原本となった『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯』(1996年刊行)で日本エッセイスト・クラブ賞、ミュージック・ペンクラブ賞。2009年『オーケストラ、それは我なり―朝比奈隆 四つの試練』で織田作之助賞大賞。他の著書に『鍵盤の天皇―井口基成とその血族』『杉村春子―女優として、女として』『日本航空一期生』など。慶應義塾大学卒業。日本航空勤務を経て東宝演劇部戯曲研究科9期。
