――「潮音」のもう一つの主要な舞台が、薩摩藩、今の鹿児島県ですね。その九州・鹿児島取材の思い出を教えていただけますでしょうか。
「商人っていうのは、すごいもんだ」
宮本 今の鹿児島と、僕が『潮音』で書いた頃の薩摩とがあまりに違うということを痛感しましたね。なにしろ今の鹿児島の市街地は、明治以降に錦江湾の埋め立てなどで開発されたものですから。幕末から明治初期の風景を想像しようにも、何も風情が残っていない。
そんなときにね、薬売りたちが歩いた道を、僕らもいっぺん歩いてみようということで、大分から海岸沿いに日向街道をゆっくり南下していきました。
その途中、美々津(みみつ・宮崎県日向市)という港町に立ち寄りました。その町でもっとも隆盛を誇った廻船問屋の建物が、歴史民俗資料館として復元されているんです。その展示の中に、「この小さな港町の小さな廻船問屋がなぜ日本中に名を馳せたのか」という理由が書いてありました。
美々津の背後の山地は、江戸時代から林業が盛んなところです。そこで採れる杉は、船の材料、とりわけ櫓や櫂に使うのにうってつけなんです。飫肥杉を割った時の断面のギザギザが、水を掴まえるのに最適だからだそうなんです。だから日本中の船頭たちが競って飫肥杉を買い求めた。その飫肥杉を大坂や江戸に運ぶことで、日向の小さな町の廻船問屋が、ものすごく大きな商売を全国に広げていったんです。その展示を見たときにね、「商人っていうのは、すごいもんだ」とつくづく感心しました。
そうやって考えていくと、やはり商人である富山の薬売りが薩摩に行くことぐらい、彼らにとってみれば簡単なことだったかもしれない。資料を見ると、富山から薩摩まで、だいたい片道三十五日ぐらいかかったそうです。で、薩摩ではたった五日間しか行商できず、また三十五日かけて富山まで戻る。つまり三ヶ月近く家を空けて、ひたすら歩いていたわけです。
「海の民」だった富山人と薩摩人のつながり
現代の僕らから見たら、とてつもなくしんどいことに思えるけれど、彼らはそれを淡々とこなしてたんでしょう。日盛りの日もあれば、土砂降りの日もあれば、風の日もある。それでも行商人は日向街道を薩摩に向けて黙々と歩いていた。僕も同じ道を歩くうち、彼らの背中が、スッと目の前に浮かんできたんです。
その時、「よし、俺は一人の行商人になればいいんだ」と。「その男になりきれば、この小説を書き続けることができるだろう」と、自信のようなものができあがったんです。
それと日向街道は大半が海沿いですからね。そこを歩いた江戸時代の富山人も日向の海を見て、ふるさと富山の海辺の景色を思い浮かべたと思うんです。日本海を目の前にした富山人は、昔から海の民だと思うんです。薩摩も琉球を経て、海の道で中国大陸につながっている。その意味ではやっぱり海の民です。海の民同士、富山人と薩摩人が心を通わせることもあったのではないか……。そうやって想像していくと血が騒いで、小説の核みたいなものがあの旅の中で僕の中にできましたね。
(完全版は発売中の『文學界』4月号でお読みいただけます)
