「女郎衆はマア、十人が九人、めったに小児(こども)は産まねえから」

とある。勤めあがりは元遊女のこと。

多くの遊女は荒淫(こういん)と性病のため、妊娠しにくい体質になっていた。しかし、避妊法はせいぜい詰め紙をする程度の不完全なものだったため、妊娠することもあった。

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妓楼にとって、遊女に妊娠されるのは痛手だった。その間、稼げなくなるし、商品価値もさがる。

吉原で生まれた子は吉原で生きる運命に

遊女が妊娠したのがわかると、妓楼は中条流の堕胎医を呼んで堕胎させた。

現在の妊娠中絶手術にくらべると粗雑な方法であり、たとえ堕胎に成功しても、体調をくずす遊女は多かったであろう。失敗して死亡する例も少なくなかったに違いない。

全盛の花魁が妊娠したときは大事をとって、寮(別荘)で出産させることもあった。

妓楼に赤ん坊がいては営業上の支障になるので、生まれた子供はたいてい里子に出された。

女の子のなかには、禿(かむろ)として育てられる者もいた。長じてからは遊女になる運命である。

稼ぐ遊女、稼げない遊女では雲泥の差

粗食と不摂生な生活をしながら毎日多くの男に接するため、体調をくずし、病気にかかる遊女は多かった。しかし、滅多に休むことは許されなかった。

全盛の花魁や、稼ぎのよい遊女が病気になったときは、妓楼も医者を呼んで治療をさせた。

しばらく静養させたほうがよいとなれば、身のまわりの世話をする振袖新造や禿をつけ、浅草今戸町や金杉村にある寮に出養生(でようじょう)をさせた。もっとも、出養生の費用は最終的に遊女が支払わなければならなかった。

すでに盛りを過ぎた遊女や、稼ぎのよくない遊女の場合、薄暗い行灯(あんどん)部屋などに放り込み、ろくに薬もあたえずに放置しておいた。まるで、さっさと死んでしまえといわんばかりの冷酷さだった。

いよいよ死期が近いとなると、実家に知らせて親を呼び寄せた。

楼主は親に向かい、

「年季証文は返してやるほどに、家に連れ帰って、死に水を取ってやりなせえ」

などと、恩着せがましく残りの年季を破棄してやった。

妓楼で死なれると面倒なので、早目に厄介払いをしたのだ。

実家が遠い場合は知らせようもない。病気の遊女はろくな治療も受けないまま衰弱死した。あとは、すみやかに死骸を菰(こも)に包んで浄閑寺に運ぶだけである。

永井 義男(ながい・よしお)
小説家
1949年生まれ、97年に『算学奇人伝』で第六回開高健賞を受賞。本格的な作家活動に入る。江戸時代の庶民の生活や文化、春画や吉原、はては剣術まで豊富な歴史知識と独自の着想で人気を博し、時代小説にかぎらず、さまざまな分野で活躍中。
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