「ほとんどの遊女は、梅毒などの性病などによって、年季を待つことなく命を落とし、三ノ輪にある浄閑寺などに葬られた」…華やかに見えるものの、内実は決して幸福とは言えない吉原の遊女たちの生活を、ノンフィクション作家の八木澤高明氏のベストセラー『江戸・東京色街入門』(実業之日本社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む

写真はイメージ ©getty

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ナゾの歓楽街「吉原」はなぜ誕生したのか

 ここで吉原の歴史を辿ってみよう。徳川家康が江戸に入府すると、江戸の街は急速に広がり、人口も増えていく。江戸造営のための職人たちや国元から江戸の屋敷に詰める武士たちが溢れていた。男女の割合は女が4割ほどで、常に女不足であった。さらには、関ヶ原の合戦や大坂夏の陣などで取り潰しにあった大名家の浪人たちも江戸の街に流入していた。

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 男たちの慰安施設と、幕府にとって不穏分子を監視する意味もあり、元和3年(1617)に庄司甚内の願いを認め吉原が設置されるのである。吉原の語源は、もともとは葦の原だったことから葦原となり、縁起を担いで吉原となったという。

 場所は今の吉原の場所ではなく、当時の町外れであった日本橋人形町界隈である。人形町の交差点から、大門通りを入ったあたりが吉原(元吉原)だった。当時は、四方を堀割で囲まれていたが、今ではアスファルトの道となり名残はない。ただ、居酒屋や割烹などが肩を寄せ合うように並び、雑然とした一角がある。この場所が単なるオフィス街とは違い、歴史の因縁を背負っているように思えてならなかった。

 明暦3年(1657)、10万人が亡くなったともいわれている明暦の大火が発生し、元吉原を含めた江戸の市街地のほとんどが焼けた。大火後、幕府は開幕以来手をつけてこなかった江戸市中の区画整理を実行する。寺などを郊外に移し寺町を形成するとともに、町外れにあった元吉原も幕府の命により、江戸のさらに町外れであった現在の場所に移転する。

 吉原の区画は、この場所に移ってきた明暦3年から400年近く変わらない。江戸時代初期に産声をあげ、戦後の昭和33年(1958)4月1日に施行された売春防止法により、遊廓からはじまった吉原と売春の歴史は途絶えたかと思われたが、ソープランド街として生まれ変わった。

 そもそもソープランドは吉原ではなく、東京の東銀座で誕生した「東京温泉」が最初だった。20人の女性従業員を抱え、「トルコ風呂」と名乗った。トルコ風呂の名称は、後にトルコ大使館からのクレームにより、ソープランドに改称されるまで使われ続けた。