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 ソープランドが初めて吉原にできたのは、昭和33年8月のことだったという。「トルコ吉原」の名称で営業した。ちなみに当時の入浴料は700円で、今でいえば1万円ぐらいの換算になる。

苦界に沈んだ遊女に思いを馳せる

 吉原にはかつて大門があったが、今では存在しない。大門のあった場所に足を運んでみると、そこには道路を挟んで柱が立っていて、大門があったことを今に伝えている。

 この柱のすぐ脇には、警察の派出所があるが、江戸時代の遊廓華やかりし頃には、吉原の私設の警察ともいうべき、四郎兵衛会所という番所があった。

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 四郎兵衛会所の役割は、廓主たちにとって商品である遊女たちの逃亡を防ぐことであった。遊女たちは、芸娼妓の周旋人である女衒によって買い取られて、吉原へとやってきた。親に支払われるのは、5両から10両、時代によるが、現在の価値で1両は10万円ほどである。

 18歳前後で客に水揚げされ吉原の遊女となる。約10年勤め上げ20代後半で年季明けとなるのだが、ほとんどの遊女は、梅毒などの性病などによって、年季を待つことなく命を落とし、三ノ輪にある浄閑寺などに葬られた。

歌川広重「東海道五拾三次 吉原 左富士」 ©getty

 年季前に、吉原という苦界から抜けるには、客から身請けされることである。実際に客が身請けをするとなると、遊廓の関係者などに、現在の金で1億円以上を支払わなければならなかった。

 遊女たちの中には、吉原から逃れようとするものが、後を絶たなかったのである。客と駆け落ちを試みたところで、番人たちの捜索から逃れることはほぼ不可能だったという遊廓へと連れ戻されると、遊女たちには、楼主や手下の男たちによる折檻が待っていて、それで命を落す者も少なくなかった。

 メインストリートである仲之町通りを中心として、大門から見て左右に通りが延びている。手前右から江戸町一丁目、左に二丁目、次の通りの右は揚屋町、左が角町、最後の通りの右が京町一丁目、左が京町二丁目と呼ばれた。

 目ぬき通りにいる遊女たちは、玉代といわれる料金も高くなるが、そこから離れれば、離れるほど、その値段は安くなる。時代によっても変化があるが、遊女たちには最高級の太夫から、最下級の切見世まで厳然たる階級が存在した。

 最下級の遊女たちがいたのが、大門から歩いていくと、南の外れにあたる羅生門河岸と呼ばれた一角である。

 ソープランドのネオンを横目に見て、歴史に思いを馳せながら吉原を歩いてみるのは、いかがだろうか。