若者が数千人集まって暮らしている特異な環境ゆえ(令和6年度時点で宿舎の居室総数は3821室)、宗教やマルチ商法の勧誘が非常に多く、90年代までは統一教会系の偽装サークル「原理研」のメンバーが宿舎を回遊しては、地方(つくば市も地方だが)から出てきたばかりの無垢な学生を相手にオルグを展開していた。
当時と比べ、現在の宿舎はセキュリティも相当、向上している。とはいえ、1棟の入居者数百人とその友人知人が自由に出入りできる宿舎は、「将来の天皇陛下」が生活するに堪えうる環境とは言えなさそうだ。
悠仁さまの実姉にあたる眞子さま(現在は小室圭氏と結婚し米国在住)、佳子さまの場合、ICU(国際基督教大学)への通学手段は、メディアの注目が集まる時期などを除いて電車を利用していた。もっとも単独での移動はなく、電車通学でも皇宮警察と警視庁の混成部隊からなるSPの警護が付いたことは言うまでもない。
悠仁さまの警護が、姉たちよりさらに厳重になるのは当然で、毎日SPを連れて秋葉原~つくばを結ぶ「TX」を利用するのも考えにくい。「悠仁さまの寮生活」プランも非現実的となると、東京から通学するか、大学周辺に安全な生活拠点を確保するしかないが、現時点で有力な生活拠点が明らかにされていない以上、多少負担がかかっても「車で通学」が最有力の選択肢と見るべきだろう。
少なくとも10人のエリート研究者が自殺して話題になった「筑波症候群」
悠仁さまがキャンパスライフを送るつくば市は、1987年に3町1村が合併して誕生した新しい市である。
首都圏の人口過密対策と、老朽化した国立系研究施設の刷新を目指した「研究学園都市計画」は、1963年の首都圏整備委員会の発議を起点にスタートした。東京教育大学を前身とする筑波大学が開学したのは1973年である。
「つくば」の名前を有名にしたのは、1985年の科学万博(通称「つくば万博」)だ。国鉄常磐線の牛久駅と荒川沖駅の間に「万博中央駅」なる臨時駅が設置され、そこから「スーパーシャトル」という名のバスで会場へ向かうのが、公共交通機関を利用したメインのアクセス方法だった。
184日間で特別博史上最高となる2033万人を集客したつくば万博は、日本列島に「科学ブーム」をもたらしたが、「科学の街」のイメージはその後、この街に暮らす住民に思わぬ副作用をもたらすことになる。
万博翌年の1986年、多くの雑誌で取り上げられたのが「筑波症候群」の問題である。
1983年以降、学園都市で少なくとも10人のエリート研究者が自殺していた事実が報じられ、職住接近の人工都市が抱える無機質な空間が、住民たちの“心の砂漠”につながっているとの指摘が相次いだ。
1979年から7年間、筑波大で教鞭をとった哲学者の中埜肇氏は、学園都市の病根を「等質性」にあると分析。次のように指摘している。
「あそこは国家機関の集まりで、そこに住む人間は学歴、ライフサイクルが同じで等質的です。人は多様性のなかでしか息抜きできない。等質性の社会にいると息のつまるような気持ちになる」(『文藝春秋』1986年6月号)