超人的名将ではなく、リアリスト

 東郷らは黄海海戦の苦い経験に基づいて戦術を練り直し、「敵を逃がさない同航戦」こそバルチック艦隊との戦いで取るべき最善手との結論に達した。そして同航戦に持ち込むための回頭のタイミングまで事前に定め、「味方艦を相当数損失しようとも、必ず敵を全滅させる」という非常の決意を以て戦いに臨んだことが、勝利へとつながったのだ。

連合艦隊の旗艦「三笠」 ©文藝春秋

 日露戦争前半の度重なる失敗にもめげず、日本の運命を決する最後の海戦で完璧な勝利をつかんだ東郷。そこから浮かび上がるのは、司馬が書いたような「常に寡黙かつ沈着冷静で、並外れた洞察力を持つ超人的な名将」ではなく、「失敗に学んで戦術を練り直し、したたかに勝利をつかもうとするリアリスト」の姿だ。

 日本海海戦の東郷を描くにあたって、司馬がもっとも参照したと思われるのが、日本海海戦の25周年にあたる1930年に刊行された日本海海戦の大衆向け戦記「撃滅」だった。著者は退役海軍中将の小笠原長生。晩年の東郷の側に常にあり、「東郷の私設秘書」とまで呼ばれた人物だ。そして小笠原が心血を注いだのが、東郷の「神格化」だった。 

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 防衛大学校名誉教授の田中宏巳氏によれば、小笠原は文才に恵まれ、日清・日露戦争の公式戦史編集で中心的役割を果たした。一方で、日露戦争中の海軍軍人のエピソードを集め、数々の軍国美談の原典となった「明治卅(さんじゅう)七八年戦役 海戦誠忠録」の編集にも携わった。

 1914年、当時皇太子だった昭和天皇の教育を行う東宮御学問所が設けられ、東郷は総裁に就任した。小笠原は同校の幹事を務め、東郷と極めて近い関係になった。東郷の発言を外部に伝えるスポークスマンの役割を果たし、東郷初の伝記も執筆した。

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