司馬遼太郎の小説を原作としたNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』が再放送されている。劇中では東郷平八郎の「T字戦法」がひとつの見せ所だが、このためにはバルチック艦隊を目前に大回頭のリスクを取る必要があった。決断の背景について太田啓之氏が解説する。

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「今度は半分なくすつもりで叩いてしまえ」

 東郷が「敵前大回頭」という思い切った指示を出せた背景には、日本側の「台所事情」もあった。加藤友三郎、山本五十六らと親しかったジャーナリスト伊藤正徳の著書「大海軍を想う」によれば、バルチック艦隊との決戦を控えた連合艦隊が艦艇整備のため一時帰国していた1905年2月3日、山本権兵衛海軍大臣は、東郷と軍令部長の伊東祐亨を私邸に招いた。海軍のトップ3人が合意したのは「今度は(自軍の艦艇を)半分なくすつもりで叩いてしまえ」ということだった。

連合艦隊を率いた東郷平八郎 ©時事通信社

 山本は「後は心配無用」として大艦補充の状況を説明した。英国に発注済みの戦艦「鹿島」は3月に、姉妹艦の「香取」も6月には進水予定。国産艦の「筑波」はすでに起工しており、「薩摩」「生駒」も近く起工と、1万トン以上の主力艦を国内生産できる態勢が整いつつあった。これに対してロシアが建造中の2隻は一向に工事がはかどっていない。バルチック艦隊を全滅させれば、ロシアは事実上すべての海上戦力を喪失し、戦争を続けられなくなってしまう。「俺の方が五隻や十隻うしなっても、気にすることはない。心配せずに戦ってよろしい」。山本は東郷にそう告げた。

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 黄海海戦の時には味方の損失を気にしつつ戦わざるをえなかったが、今度は思い切った戦ができる――。飲めない盃を重ねて山本邸を辞した東郷の気持ちは高揚していたことだろう。